2016年06月28日石井林響(いしい・りんきょう)と新井旅館

今日も朝から一日雨ですが、駅から地下道で直結、雨にぬれずに来られる静岡市美術館です。皆様のご来館おまちしております。

これから、少しずつ、伊豆市所蔵近代日本画コレクション展に出品されている、相原沐芳と親しく交わった日本画家たちの作品をご紹介します。
今回の展覧会の調査を通して新たに分かったことも、お知らせします!!

まずは石井林響。

彼は、若い頃、天風という号で活躍した日本画家です。新井旅館の沐芳と最も親しく、生涯を通じて家族ぐるみで交流したのは、もちろん安田靫彦ですが、実は、林響は靫彦よりも早くから新井旅館に逗留し、靫彦より長期にわたり滞在していました。沐芳夫妻は、靫彦の仲人もつとめましたが、林響の仲人もまた相原夫妻でした。
ですから、この展覧会では安田靫彦の次に、林響の作品を並べています。

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展示室第一室のウォールケース中央にましましているのが、林響の天風落款の「弘法大師」です。

とても大きな作品で、林響が修善寺に滞在していた、明治41年の国画玉成会(こくがぎょくせいかい)出品画です。

画面には、顔をやや右に向け、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に念珠を持って趺座(ふざ)する弘法大師像が描かれます。右端に水瓶(すいびょう)もみられます。

弘法大師を描いた現存作例は、古くは鎌倉時代よりありますが、いわゆる真如親王(しんにょしんのう)が描いた大師像とよばれる、”椅子に座し、椅子の下に沓が横に脱がれ、水瓶を配す”という古典的な形式に倣いながら、林響は大師自身をクローズアップし、椅子や沓は描かず、光背を描き加え、大幅を十二分に活かした迫力満点の作品にしています。特に目の瞳の表現は、なかなかにリアルで、新しい日本画を模索した若い画家ならではですね。

ちなみに修善寺温泉には、福地山修禅寺を開創した弘法大師・空海が、桂川の水で病気の父を洗う子どもの姿をみて、川の水ではつめたかろうと、独鈷杵を川に投げ入れ、温泉を湧きたたせたという伝説がありますから、林響は、新井旅館に滞在して、この修善寺ゆかりの伝説を知り、大画面に新しい描法で弘法大師を描いたのではないかと思います。

千葉出身で東京で洋画家を目指した林響がなぜ新井旅館と縁ができたのかはわかりませんが、この地で制作したからこその画題と表現であったといえるでしょう。

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石井林響 弘法大師 明治41年[24歳]伊豆市

そして同じころ描かれた、春風駘蕩 (しゅんぷうたいとう)。

とても不思議な絵です。三人の中国人物が馬に乗って、柳の緑が爽やかな川辺の道を行く様子が描かれていますが、中央の人は、春爛漫に酔いしれたのか、左右の人物に支えられているのです。こんな不思議なポーズはみたことがありません。因みに箱書は沐芳が記していますが、この作品も林響が修善寺滞在時期ですから、大分たってからの箱書です。

今回の調査で、この不思議な図は、江戸時代の画譜、吉村周山『和漢名筆画宝』六巻六冊(明和4年刊)中の図像をそっくり写したものであることがわかりました。

この本書は中国、日本の古名画を収録したもので、このう第一巻「官人馬乗遊之図」として明代の戴文進の作として掲載されていました。

日本画革新を目指す若き画家が、こうした江戸の版本から中国主題を学んでいたことはとても興味深く思います。因みに林響は最初は洋画家を目指していましたが、東京にでて橋本雅芳に師事し、また国学院の夜学に通って有職故実を学んだといいますから、こうした江戸の画譜、絵手本類も、国学院の夜学で親しんだのかもしれませんね。

ちなみに、杜甫「飲中八仙歌」で「知章が馬に騎るは船に乗るに似たり。眼花井に落ちて水底に眠る」と謳われた賀知章は大抵、両側を童子に支えらるた姿で描かれますから、この人物は賀知章を描いているのかもしれません。

(e.y)

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石井林響 春風駘蕩 (しゅんぷうたいとう) 明治40 年代 [24~26歳頃] 伊豆市

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吉村周山『和漢名筆画法』六巻六冊 明和4年(1767)刊のうち第一巻「官人馬乗遊之図」より