2016年07月02日紅児会の広瀬長江(ちょうこう)と興津・耀海寺(ようかいじ)
私が広瀬長江の作品に初めて会ったのはもう15年ぐらい前のこと。それは、月明かりのもと、舟遊びをする唐美人が描かれた、透明感のある印象深い一幅でした。2003年、城西国際大学水田美術館にて『房総の素封家と近代日本画壇―大観・紫紅とその周辺』展で紹介するにあたり、長江は33歳で夭折したこと、紅児会(全19回のうち)に13回も出品した、紅児会の画家であることを知りました。
新井旅館との縁も深く、安田靫彦を沐芳に紹介したのも、また紅児会に前田青邨を紹介したのも長江だったようです。明治40年代の寄合描は、安田靫彦、石井林響、広瀬長江、浅野未央の4人によるものが目につきます。
例えば、十二支扇面散。
因みに、福地山修禅寺の方丈様お気に入りの寅年の絵は長江です!
また、桃太郎の絵巻。桃太郎と犬が長江、雉は未央、猿は前田青邨。写ってませんが、その向こうに靫彦の赤鬼青鬼が描かれてます。
伊豆市所蔵品の6点の長江作品からは江戸の浮世絵や近世初期風俗画が連想されるものが多いように思います。東京生まれの長江ならではの、”江戸のよすが”が感じられる”粋”で素敵な作品ですね。
夜の吉原道中を銀地の屏風で表現しています。キラキラした細い川も流れています。
注目したいのは、左側のこの作品。
広瀬長江筆 「若衆と娘(わかしゅとむすめ)」 明治末~大正初 [24~26歳頃]
金地の背景に浮世絵風に描かれた娘が、若衆の手の棘(とげ)を抜いています。
おそらくこれは、井原西鶴「好色五人女(こうしょくごにんおんな)」の「八百屋お七(やおやおしち)」の冒頭のお話ではないでしょうか。つまり、火事でお七と母とが駒込吉祥寺に避難し、その寺の小姓(こしょう)・吉三郎の棘を、お七が抜いてあげる場面です。この出来事がきっかけで、お七と吉三郎が人目を忍ぶ仲となるのです。
「八百屋お七」のテーマは、錦絵(浮世絵版画)では、吉三郎会いたさに、再びお七自ら火事をおこし、火の見櫓に上る姿がよく描かれます。例えば月岡芳年の作品など印象的ですね。近代以降も八百屋お七は、鏑木清方(かぶらぎきよかた)らの作例が知られ、雑誌の挿絵では棘ぬきの場面もしばしば描かれているようです。
長江のこの作品は、お七と吉三郎、二人とも初心な雰囲気がよく描かれていますね。
それから、もっと若い時の、勝仙と称した頃の作品も展示しています。
広瀬長江筆「観桜(かんおう)」明治末 [24~26歳頃] 伊豆市
桜の花が散る中、古典絵巻から出てきたような高貴な人物や童子、お坊さんたちがお花見をしている場面ですが、描かれた人々はどこか、悲しそうな物憂い表情をしていますね。これは何を描いているのか、目下研究中ではありますが、花吹雪、貴族の花見、物悲しい場面であることから、下村観山「熊野観花(ゆやかんか)」や木村武山「熊野(ゆや)」同様、平家物語を下敷きにした謡曲「熊野(ゆや)」の別れの場かもしれない、と私はおもっています。
熊野のお話は、こんな話です。
平清盛の三男宗盛は、遠江の病の母のため暇乞いする愛妾(あいしょう)・熊野の帰国を許さず、清水寺(きよみずでら)の花見で舞を舞わせますが、散る桜を目にした熊野が、母の元に帰りたいと歌を詠むと、宗盛は帰国を許す、というものです。
皆さんはどう思われますか?縦長の掛軸に、上部の大きく余白をとる構図、こうした画題選択は、紅児会風であるといわれています。
日本画革新を追求した紅児会(こうじかい)で活躍していた長江は、静岡市内、清水区の興津にある、耀海寺(ようかいじ)の檀家・佐野家の「ゆき」と結婚しました。妻の実家の地元では、明治44年(1911)には「潮光会(ちょうこうかい)」という後援会が発足し、興津の他、となり町の由比などでも、画会や頒布会が行われています。大正2年(1913)、紅児会は解散しますが、この頃、すでに長江は結核を患い、興津で療養していました。友人・靫彦の書簡によれば、翌年11月、多量の喀血があり、横山大観ら画家たちが見舞金集めに奔走したといいます。
大正6年(1917)5月3日、長江はこの耀海寺墓地に葬られました。長江の墓は今も、同寺の墓所にあります。お墓の背面には、画友や支援者、32名の名が刻まれていますが、その中に、前田青邨、安田靫彦、中村岳陵、牛田雞村、速水御舟、小林古径ら紅児会の画家仲間とともに、左下には「相原寛太郎」つまり沐芳の名前も刻まれていました。
(e.y.)