2016年07月06日相原家と安田家

安田靫彦は、明治42年、新井旅館の相原沐芳の招きで、病気療養のため約5か月間新井旅館に滞在したこと、また44年末まで沼津で静養に努めたことがきっかけで、沐芳と生涯、家族ぐるみで交流が続きました。

 

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「相原家と安田家」とした本章では、毎年、いわばお年賀として、靫彦が相原家に描き贈った毎年の干支の絵が飾られています。二回りも贈られたということですが、本展でご紹介できるのはその一部にすぎませんが、表現描写の多様さをみていただこうと数点選んでみました。

 

例えば、鳥獣戯画を思わせる月で餅つきをする兎や、俵屋宗達の牛図とはまた違った滲みと暈しを駆使した牛、写生的な犬、また十二天より干支を選んだ白描風の作など、靫彦の古典古画学習がうかがえる、楽しい動物コーナーとなりました。

 

奥に見える屏風はこのブログの初めの方で紹介した「十二支扇面屏風」同様、直接屏風に扇型を描いているもので、十二支扇面同様、靫彦ら紅児会メンバーが明治末に描いたものに、昭和になってから、相原家より大磯の安田家に屏風が持ち込まれ、靫彦の弟子たちが筆を加えて完成させたものです。

 

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そらから、新井旅館より特に本展に際して拝借した「相原浩二君壽像」は、まさに相原家と安田家の交流の証です。

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また、ふわふわの産毛の赤ちゃんが赤いチャンチャンコを着て座っていますね。これは明治43年3月31日生まれの沐芳の息子で四代目主人の相原浩二、生後3ヶ月頃の姿です。

 

30年後の昭和14年、赤ちゃんだった浩二君が結婚することになり、靫彦が沐芳に頼まれて記した箱書には、浩二君がまたオシメをしていた頃の肖像画であること、30年の月日を経て、浩二君が結婚するに際し餞のことばが認められています。

 

さらに2年後の沐芳の箱書には、箱蓋を覆う赤い生地は、当時浩二が常に身に着けていた、描かれたモスリン地であること、これを浩二の母が大切にしまっていたことが記されています。

相原家と靫彦の温かな交流、親子の愛情が感じられる作品です。

 

*本展出品の伊豆市コレクション以外の出品作(例えば「沐芳人相書」「相原浩二君壽像」「相原沐芳像」「かちかち山」など)をまとめた小冊子を伊豆市所蔵品目録とともにセットで販売しています。詳しくはミュージアムショップへ!!

 

(e.y.)