2016年07月07日画家たちの五十三次と大観

今日は七月七日、七夕です。静岡市美術館では2012年に「七夕の美術―日本近世近代の美術工芸を中心に」を開催しました。あの年もそうでしたが、今晩もはれそうです。天の川がみえるでしょうか?

七夕展も本展も偶然担当している筆者としては、毎年、七月七日にはご縁がある気がします。

 

1.安田靫彦 鴨川夜情_0707blog.jpg

安田靫彦 鴨川夜情 昭和9年頃 伊豆市

 

本展のメインイメージである安田靫彦「鴨川夜情」も、田能村竹田「柳塘吟月図(柳蔭吟月図)」に記された、七夕の夜のエピソードに想を得て描かれたものなのです。皆さんも今宵は描かれた3人のように、夕涼みをしながら、清談をかわしてみてはいかがでしょうか。

この展覧会では(またこのブログでも)沢山の若き画家たちをご紹介してきましたが、彼らはなんと、静岡市美術館のすぐ隣、浮月楼で休憩したことがあるのです。確実にそのことがわかる作品を今日はご紹介します。

 

会場写真伊豆 036.JPG

大観・観山・紫紅・未醒 東海道 大正4 年、伊豆市

 

「東海道」四幅対とそっくりの有名な作品があります。現在東京国立博物館が所蔵する、原三溪旧蔵の「東海道五十三次絵巻」です。これは、日本美術院を再興するにあたり、その資金調達のためにと、大正4年、横山大観・下村観山・今村紫紅・小杉未醒の4人が、東海道を汽車を用いず人力車・馬車・駕籠などで旅をし、道中の風光を描いて作った絵巻物です。

沐芳旧蔵の四幅対はその旅の途中、4人が修善寺に立ち寄った際に描かれたと思われるものです。いずれも東京を出発して修善寺に至る間の場所がえがかれていて、小杉未醒が程ヶ谷、横山大観が藤沢、下村観山が馬入川(ばにゅうがわ)、今村紫紅が早川を担当しています。

彼らはその後、静岡市美術館がある府中(静岡)にもやってきて、なんと、浮月楼で休憩をしていたことが『静岡新報』に記されています!!

「四画伯滞杖 日本美術院の横山大観、下村観山、小杉未醒、今村紫紅の四画伯一行は去る十一日東京出発、東海道の駅路を写生しつつ箱根の雪景を眺め、昨十七日三島町より馬車にて富士川を渡り、岩淵、蒲原、由比を通過して興津町一碧楼に投宿し、翌日未明、同所を発し、当市浮月楼にて少憩、夫より宇津の谷峠を徒歩し、又馬車を叱して島田町に達し、魚種旅館に投宿、二十一日同揮毫の為滞在す。因みに東海道五十三次駅路の写生は頗る長巻にして、珍らしき物の由、京都着は本月末日なるべしと」

つまり、大正3年3月17日 横山大観、下村観山、小杉未醒、今村紫紅は、三島より興津に至り一碧楼に宿泊、18日、静岡浮月楼で少し休憩し、島田魚種旅館にて宿泊、20日同旅館で揮毫している模様。今や東京国立博物館所蔵の絵巻は確かにとても長くて珍しいものです。

近代の弥次喜多道中、なんだか楽しそうですね。

沐芳さんは、彼らのために、また美術院のために、絵巻とよく似た筆遣いのこの四幅対を求めたのでしょう。岡倉天心なきあと、日本美術院の牽引者である横山大観は、美術院のために様々な活動をしますが、この大観の仲介で、沐芳さんは日本美術院が再興されるにあたり賛助会員となって、積極的に彼らを支援していました。この度はそうしたことがわかる資料も併せて展示しています。

ところで、靫彦ら若き画家たちにとって大観先生は、大先輩であり”先生”であり、別格でしたが、同じように、沐芳にとっても大観は他の画家とはちがった特別なもてなしをしていました。新井旅館の離れには昭和3年、大観専用のアトリエ・山陽荘が建てられ、大観はここで自由に筆を振るうことができたのです。

 

会場写真伊豆 038.JPG

横山大観 神州第一峰(しんしゅうだいいっぽう)昭和5年 伊豆市

 

この堂々とした富士山、山陽荘で描かれたことが箱書からわかります。

墨だけで描かれた、堂々とした大幅です。富士山の雲海は、何度も何度も墨を塗り重ね、滲ませたり、ぼかしたりして、墨と紙と筆とを巧みにコントロールしています。墨をそそぐように、とよく美術史の言葉でいいますが、本当に上手くそそいでいます。簡単そうにみえますが、大観じゃなければ描けない墨画です。

画中に記された年紀から、昭和5(1930)年1月に描かれたものとわかりますが、この昭和5年は記念すべき年です。この年の春、大観らは、イタリア政府主催ローマ美術展の遣欧使節として渡欧しますが、この壮行会が新井旅館で盛大に行われ、美術院の画家達がたくさんあつまりました。

つまり大観は、渡欧前に「神州第一峰」と題し、日本一の山・富士山を墨絵で堂々と描ききって、そして渡欧をはたし、帰国した1ヶ月後に再び沐芳の元を訪れ、”山陽荘で描きました”、と謹んで箱書をしているのです。

二人の親密な関係がここにも認められますね。お互い、尊敬しあっていたのでしょう。

(e.y.)