2016年07月09日修善寺は第二の故郷

安田靫彦の仲間たちとは別の形で、修善寺・新井旅館とまた福地山修禅寺とゆかり深い画家がいます。会場芸術を提唱した、異色の日本画家・川端龍子です。
本展では最後に龍子のコーナーを設けています。

 

図1 会場写真伊豆 045.JPG

 

自ら”修善寺は第二の故郷”と語った川端龍子と新井旅館との縁は、明治45年、龍子27歳の時にはじまります。

当時、龍子は、洋画家を志しており、渡航費用調達のための頒布会(はんぷかい)を計画しました。売るための絵の制作場所として新井旅館を選び、半切(はんせつ)の日本画を描いたといいます。

 

今の日本の社会では、家屋のスタイルがすっかり西洋化していますから、掛軸や屏風よりも、額装の洋画の方がよく売れますが、この当時は洋画家を目指す画家も、日本画を描いて売ったものでした。

 

この時、新井旅館の”池の鯉”と対面したことが、龍子が生涯、幾度となく鯉を描くきっかけとなったといわれています。龍子にとって鯉を描くことは”自分の面構え、心構えを表わそうとすること”だったといいます。やがて沐芳とも親交し、毎年家族で湯治に来るようになりました。

 

図2 湯あみ 部分 会場写真伊豆 047.JPG

 

正面に掲げた、可愛らしいおかっぱ頭の女の子が入浴する作品は、龍子の三女がモデル。女の子は、片足を浴槽の中にぶらつかせて、気持ちよさそうに、ぼーっとガラス越しの庭池の鯉を眺めています。今でも、新井旅館の天平風呂に入ると、池の鯉が見られる仕組みになっているのです!この天平風呂は安田靫彦がデザインしたもので、唐招提寺のように柱がエンタシスで、天井が高く、とっても気持ちのよいものですよ。

 

展覧会には「湯治」という題で出品していますが、絵の裏には「湯浴(ゆあみ)」と記されています。女の子が気持ちよく湯浴みをしている、それをお父さんの龍子が優しく見守る、そんな温かい絵ですね。

 

図3 要覧 会場写真伊豆 049.JPG

 

また、昭和19年、別荘「青々居」の建築がきっかけで地元の大工さんと意気投合。後には、町の観光協会顧問に推挙されて、町民とも親しく交流しました。修善寺の町勢要覧をつくるにあたり、その表紙絵も龍子が頼まれると、画題には修善寺温泉を代表する眺望を選び、これを描いて無償で提供しています。本展ではこの原画(「修善寺城山公園よりの展望」)や、修善寺町長公室に飾ってあった名産のしいたけを描いた絵もあわせて展示しています。

 

ちなみに龍子は建築が得意で、東京の自邸の庭にも、わざわざ修善寺から庭石を取り寄せ、垣根には名産の孟宗竹をあしらうほどでした。それくらい修善寺を愛していたのです。現在、自邸とアトリエは、大田区立龍子記念館となり、龍子宅も含め公開しています。

 

図4 修禅寺の龍 展示替え 010.JPG

 

龍子は自身の次女を亡くすと、福地山修禅寺に「川端系の墓」(妻、三男、龍子も眠る)、や「筆塚」などを建立し、修禅寺の檀家にもなりました。それが縁で、昭和27年、福地山修禅寺の宝物殿開館に際し、約4×8mの大天井画「玉取龍」を揮毫しています。原寸より小さくなってしまいましたが、スライドでご紹介しています。
龍子の龍は、今なお福地山修禅寺の天井から我々を見守ってくれています。

 

(e.y.)