2020年05月02日ブログで展覧会気分(2)

臨時休館中に展覧会気分を味わっていただく企画、2回目の本日は、ミュシャと並び本展の軸となる、エミール・オルリクを紹介いたします。

エミール・オルリクはプラハに生まれ、ミュンヘンで主に銅版画を学びました。やがて木版にも関心を持ち、日本の錦絵に憧れたといいます。来日前には、ベルリンで限定発行されていた高級美術雑誌『パン』やミュンヘンで発行されていた美術雑誌『ユーゲント』などで銅版画を発表したり、ウィーン分離派展には第1回から参加するなど活躍していました。

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展示風景。手前はウィーン分離派の機関誌『ヴェル・サクルム』第2年次第9号(和歌山県立近代美術館)、オルリクの作品が掲載されているページ。左隣の第1年次第11号(宮城県美術館)の表紙画はミュシャによるもの。展示ケースの後ろに見える水色の壁にはオルリクの作品が掛かっています。

1900年4月に来日したオルリクは、日本画の筆法や、彫師、摺師の分業による浮世絵版画の技法を学ぶとともに、日光、箱根、静岡、京都、奈良など日本各地を訪問しました。また、この年の9月から10月にかけて開催された白馬会第5回展に銅版画、木版画、水彩画、パステル画などを出品したことも知られています。約10ヶ月の滞在後、帰国したオルリクは、自作と日本での収集品によってヨーロッパの木版表現に新風をもたらすことになります。

《富士山への巡礼》はこの滞日の成果を示す作品の一つです。白装束に身を包んだ人々が目指すのは、画面右上に白く表された富士山です。菅笠をかぶり、着ござで身体を覆うなど明治時代の富士詣での風俗が捉えられています。橙色の空、緑色の土手、人々の装束の白と黄色といった明澄で多彩な色あいは、来日前のオルリクの木版画にはなかった特徴です。

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エミール・オルリク《富士山への巡礼》1901年 パトリック・シモン・コレクション、プラハ

またオルリクは東京で木版画のほかに自画石版も試みました。石版、すなわちリトグラフが石版工による複製印刷技術とみなされていた東京で、オルリクは自ら版に描画し、詩情あふれる東京風景を制作しました。《東京の通り》には色とりどりの暖簾を掛けた商店が並ぶ通りが明るい色調で描かれています。画家の手の動きがそのまま反映された写実的なスケッチですが、「古市」と染め抜かれたのれんの下に見える表札には、「ヲールリク」とカタカナで名前を入れる遊び心も発揮されています。

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エミール・オルリク《東京の通り》1900-01年 宮城県美術館

石版工だった織田一磨は印刷所でオルリクの石版画を目にして感銘を受け、後に東京や大阪の風景の連作版画を制作します。オルリクの自画石版は、芸術表現として版画を作ろうとした日本の画家たちに大きな影響を与えたのです。

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展示風景。織田一磨の東京風景(千葉市美術館)、大阪風景(個人蔵)の連作。

 

(k.y.)