2016年07月05日苦心の力作・紫紅「枇杷叭叭鳥」のエピソード
新井旅館の沐芳コレクションは掛軸だけではありません。展示室にはこんなに立派な六曲一双屏風が展示されています。奥の金屏風は横山大観の筆にかかるもの、手前の屏風は靫彦の盟友で、36歳で夭折した今村紫紅の作品です。
みなさん、ぜひ、この屏風の前に立ってみてください。そして右に左に、前に後ろに、ゆっくり歩いてみてください。きっと枇杷畑の中を歩いているような気分になると思います。画面には、左右にそれぞれ1本ずつ、2本の枇杷(びわ)の木が描かれ、5羽の叭叭鳥を配しただけですが、屏風の枠を超えて大きな空間が広がっています。
この大きな空間の広がりは、菱田春草「落葉」などの影響も指摘されるように、輪郭線を描かない、没骨法と呼ばれる手法で樹木を描いていることにもよりますが、何より、白っぽい樹木の幹や枝の配置、黒い叭々鳥の配置の工夫、つまりは紫紅の”構図の妙”にその秘密があるように思います。右の枇杷の樹木は、根本を描き、太い幹の上部は途中で切れていますが、左は上下とも切って、細い幹と枝葉を屏風の左に寄せて描いていますね。
ところでこの屏風、紫紅にとっても会心の作だったようです。
“とある作品”の沐芳の箱書によれば、沐芳から六曲屏風を依頼された紫紅は、特に構図に苦心してこの屏風を仕上げ、修善寺の沐芳の元までもってきました。ところが、生憎、沐芳は上京中。沐芳に制作の苦心談とともにこの屏風を届けようと思ったのに、、、とたいそう悔しがった紫紅は、たまたま新井旅館に逗留していた紅児会の仲間たち、石井林響や広瀬長江らにそそのかされて、ついに、沐芳を”指名手配”したのです。
これが、その”とある作品”、相原寛太郎の人相書、つまりは指名手配!です。
沐芳さん、なんだか歌舞伎にでてくる悪役のような出で立ちですね。
「年の頃三十七、八。身の丈、五尺二三寸、眼光鋭く、色真黒く、眉毛太く、中肉中丈の好男子と自ら云う者なり」なんて書いてあります。見つけ次第代官所へ訴えれば、恩賞をたっぷりいただけるとも!
紫紅は親分肌で心優しい人だったようで、病気がちな靫彦を心配して沼津に引っ越して近所に住んであげたりと、靫彦と性格は反対だけど大の仲良しだったようです。沐芳さんとも、こんな人相書きの悪戯ができるような、親友だったのでしょう。
沐芳さんはこの人相書をとても面白がって、丁寧に表装して、箱書を認めています。そこにはこの屏風納品時のこの楽しいエピソードとともに、夭折した紫紅と今や芸術談義を交わすことができない無念の情が尊敬をもって記されています。
それにしても沐芳コレクションでいえば、石井林響、広瀬長江、また天才速水御舟もこの紫紅も、優れた画家ほど30代40代で命を失っているような気がします。
最後に、本屏風の隣の大幅「鷲」は、本当にスゴイ絵だと思います。あんな作品、紫紅以外、描けないでしょう。おそらく赤曜会出品作だろうとされる作品で、新しい日本画を真摯に模索し、墨の使い方などは中国の明清時代の文人画などに想を得たのでしょうが、それにしてもあんな大きな鷲をあんな大きな紙に!お化けのようです。とても解説なんて書けません!紫紅はやっぱりすごい画家、大親分だなと展示室でつくづく思いました。
(e.y.)