2021年07月11日吉田博 旅と風景(2)「山を描く」

若き日の吉田博は徹底した写生で画技を磨きました。身なりに構わず写生に励み、真っ黒にすすけた風体で不審がられ、巡査に尋問されるような吉田を、画友たちは「絵の鬼」と呼びました。

34歳で文部省美術展覧会の審査員となってからも、吉田は年の半分ほどを写生旅行にあてました。とりわけ好んだのは山岳風景でした。過酷な高地での制作に備え、山案内人を依頼し、十分な食料を準備して1ヶ月~3ヶ月ほど山に籠もるのです。富士山に滞在したときは八合目の岩室にテントを構え、キャンバスを片手に毎日頂上まで登ったといいます。友人の画家・高村眞夫は、そんな吉田のことを「高い山を見ると其テッペンを登り切らないと腹の虫が収まらないと言ふ一種の高山病乃至(ないし)雷鳥の生まれ代はり」「穂高や、富士なぞは自分の家の庭位に考えて居る様です」と親しみを込めて書き残しています(高村眞夫「老友のエピソード」『太平洋』第3号、昭和12年2月、太平洋美術学校文芸部)。

千変万化する山の表情を全身で味わい、現場で一気に描き上げるのが吉田のスタイルでした。山上では無理な大作や版画は、山で描いた油彩画やスケッチをもとに自宅で制作しました。実際に足を運んだ者にしか描けない絶景を卓越した描写力で描く。移ろう光や大気の変化を捉えた山岳風景画は、山そのもののような清々しさをたたえています。吉田博は「山は、登ればそれでよいといふものではない。登って、そこに無限の美を感受するのが、登山の最後の喜びではないだらうか。」(『高山の美を語る』昭和6年、実業之日本社)と述べています。作品を通じて、高山に登ったことのない私のような者までもが「無限の美」の一端に触れることが出来るのです。

吉田博の山好きは、子ども達の命名にも及びます。明治44(1911)年生まれの長男は「白山」と名付けようとしましたが、妻の反対により却下。妻の名「藤遠(ふじを)」と博の「し」を合わせた「遠志(とおし)」に落ち着きました。それから15年後に生まれた次男には、満を持して一番好きな山から取った「穂高(ほだか)」の名を与えています。

 

《穂高山》大正期、油彩・カンバス

 


《日本アルプス十二題 穂高山》大正15(1926)年、木版・紙


(k.y)

 

没後70年 吉田博展

会期:2021年6月19日(土)~8月29日(日)
*会期中、一部展示替えがあります(前期7/25まで、後期7/27から)
休館日:毎週月曜日(ただし8月9日(月・休)は開館)、8月10日(火)