• 2020年05月14日 ブログで展覧会気分(4)

    4回目の原稿を書いている本日、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、静岡市の公共施設の休館延長が発表となりました。本展は休館のまま閉幕を迎えることになります。

    版画など光に弱い作品は、作品保護の観点から長期間展示することが出来ません。本展でも、会期半ばで展示替えを行う予定でした。そのため、現在の展示室には飾られていない作品もあります。
    しかも、チラシでこんな風に紹介していたものも…。


    「初登場」は果たせませんでしたが、登場予定だった展示室はこちらです。
    19世紀後半にヨーロッパでの日本美術への関心をかき立てた琳派の版本、型染めの型紙、浮世絵という3つの要素を紹介する序章の一部です。

     
    展示風景。ケース内は『冨嶽百景』(千葉市美術館)、『伝神開手北斎漫画』(千葉市美術館、ラヴィッツコレクション)。
    壁面は左から葛飾北斎《冨嶽三十六景 相州七里浜》(千葉市美術館)、葛飾北斎《冨嶽三十六景 隠田の水車》(千葉市美術館)、歌川広重《東海道五十三次之内 浜松 冬枯ノ図》

    葛飾北斎の《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》は、現代でも世界的に人気が高い作品ですが、19世紀後半のヨーロッパでも画家たちの目を惹いたようです。そのことを物語る作品がこちらです。チェコの美術の革新を目指して1887年に創立された「マーネス美術家協会」の展覧会を告知するためのポスターです。

     
    アルノシュト・ホフバエル《「マーネス美術家協会第2回展覧会」ポスター》1898年 チェコ国立プラハ工芸美術館

    大きな波にさらわれそうになる人物に、救命の浮き輪が届こうとしています。大胆な波の表現に北斎の「浪裏」が連想されます。

    船首の紋章の「S」「M」はマーネス美術家協会の頭文字、帆には「トピチェのサロン」と展覧会場名が記されています。下部には「マーネス美術家協会第2回展覧会」の文字と会期(11月3~30日)があしらわれています。保守的な美術界で溺れあがく芸術家に、先鋭的なマーネス美術家協会が救いの手を差し伸べるという象徴的な意味が込められています。

    このポスターを描いたプラハ出身の画家で装飾美術家のアルノシュト・ホフバウエルは、プラハ美術工芸学校在学中から日本の浮世絵版画を集めていたといいます。本展には1898年から99年にかけてホフバウエルが描いたポスターが出品されていますが、これらのポスターの構図にも浮世絵の影響が感じられます。さらに、ホフバウエルは、1908年にマーネス美術家協会の機関誌『ヴォルネー・スムニェリ』に北斎や歌麿について論考を寄せてもいます。

    展示室では、このホフバウエルのポスターを、北斎と広重の浮世絵版画が並ぶ壁のちょうど向かい側に配置しています。部屋の中央には北斎の版本や『ヴォルネー・スムニェリ』を置きました。浮世絵とチェコのポスターとが響き合う空間をお楽しみいただこうという趣向です。

     
    展示風景。

    ところで、このホフバウエルのポスターは前回のブログで触れたように1901年の白馬会第6回展ミュシャらのポスターとともに出品され、ヨーロッパの最新流行を示すグラフィックとして日本にインパクトを与えたのでした。

    日本美術の刺激から生まれたヨーロッパのポスターが、さらに日本へともたらされ、新しいイメージが生み出される。展示を通じてこのうねりを直接感じていただけないのが残念でなりませんが、本連載を通じて、めぐるジャポニスムの面白さを少しでもお伝えできれば幸いです。

     
    展示風景。ケース内は右から杉浦非水装幀の菊池幽芳著『百合子』(愛媛県美術館)、橋口五葉装幀の夏目漱石著『虞美人草』、『モリエエル全集』(いずれも個人蔵、千葉市美術館寄託)。

     

    (k.y.)

  • 2020年05月06日 ブログで展覧会気分(3)

    臨時休館中に展覧会気分を味わっていただく企画、3回目は『明星』と藤島武二をご紹介します。

    『明星』は、与謝野鉄幹が結成した東京新詩社の機関誌として1900年に創刊されました。与謝野晶子の情熱的な短歌に代表される新時代の文芸を育んだばかりでなく、表紙絵や挿絵などを通じて新しい視覚イメージを明治後期の世に送り出した雑誌です。

    会場風景。『明星』各号が並ぶケース。


    明治、大正、昭和を代表する洋画家のひとり、藤島武二は、1901年から『明星』の表紙絵や挿絵を手がけました。同年3月発行の『明星』第11号からの表紙には、金星のシンボルが記された星を額に戴く、夢見るような表情の女性の顔が描かれています。上部には別枠で変体仮名を交えて「みやうじやう」、すなわち「みょうじょう」という誌名がデザイン化されています(右から左へ読みます)。

    藤島武二《明星(『明星』第13号表紙)》1901年 個人蔵


    六芒星や百合といったモチーフ、文字と枠による巧みなデザイン化、太い輪郭線で人物の形を際立たせる手法など随所にミュシャらによるアール・ヌーヴォーのグラフィックの影響がうかがわれます。明星とは日本では金星のことを指し、金星は西洋では美の女神ヴィーナスと同一視されます。ジャポニスムの時代にパリで誕生したミュシャの女性像が、めぐりめぐって藤島の絵の中で、日本の『明星』を象徴する美の女神として生まれ変わっているようにも見えます。

    アルフォンス・ミュシャ《「椿姫」ポスター》(部分)1896年 京都工芸繊維大学美術宇工芸資料館


    アルフォンス・ミュシャ《春〈四季〉》(部分)1901年 インテック


    会場風景。藤島武二の挿絵や装幀。


    手前左から与謝野晶子『みだれ髪』1906年(1901年初版) 個人蔵
    与謝野鉄幹・晶子『毒草』1904年 和歌山県立近代美術館
    与謝野晶子『小扇』1905年(1904年初版) 千葉市美術館
    『中学世界』第8巻第5号 1905年 個人蔵
    奥、3冊とも川上瀧彌・森廣『はな』1902年 個人蔵

     

    藤島は『明星』の歌人たちの歌集の装幀も行いました。与謝野晶子の代表作『みだれ髪』もその1冊です。展示室では、東西の要素が融合した藤島の意匠をお楽しみ頂こうと、藤島の装幀本を一つのケースに集めています。ところで、ケースの奥に見えるのは長原孝太郎の作品で、右端の額は1901年10月に開催された白馬会第6回展のポスターです。この展覧会に藤島武二も長原孝太郎も出品していますが、さらに、洋行した画家たちが持ち帰った外国のポスターも一緒に展示されていたことが分かっています。第6回展にはパリで活躍していたミュシャや、ウジェーヌ・グラッセやアレクサンドル・スタンラン、そしてチェコのアルノルシュト・ホフバウエルのポスターが展示されたことが分かっています(ホフバウエルのポスターについては次回ブログでご紹介予定です)。

    余談ですが、その前年の白馬会第5回展が開催されたのは1900年。ちょうど来日中だったオルリクは白馬会展に出品し、『明星』に版画を寄稿しています。日本でいち早くミュシャを受容した藤島や長原は、実はオルリクとも交流がありました。チェコのプラハ国立美術館には、来日の記念にと藤島がオルリクに献辞を記して贈った『宋紫石画譜』が所蔵されています。

     

    (k.y.)

     

  • 2020年05月02日 ブログで展覧会気分(2)

    臨時休館中に展覧会気分を味わっていただく企画、2回目の本日は、ミュシャと並び本展の軸となる、エミール・オルリクを紹介いたします。

    エミール・オルリクはプラハに生まれ、ミュンヘンで主に銅版画を学びました。やがて木版にも関心を持ち、日本の錦絵に憧れたといいます。来日前には、ベルリンで限定発行されていた高級美術雑誌『パン』やミュンヘンで発行されていた美術雑誌『ユーゲント』などで銅版画を発表したり、ウィーン分離派展には第1回から参加するなど活躍していました。

    03. 展示風景_めぐるジャポニスム展.JPG

    展示風景。手前はウィーン分離派の機関誌『ヴェル・サクルム』第2年次第9号(和歌山県立近代美術館)、オルリクの作品が掲載されているページ。左隣の第1年次第11号(宮城県美術館)の表紙画はミュシャによるもの。展示ケースの後ろに見える水色の壁にはオルリクの作品が掛かっています。

    1900年4月に来日したオルリクは、日本画の筆法や、彫師、摺師の分業による浮世絵版画の技法を学ぶとともに、日光、箱根、静岡、京都、奈良など日本各地を訪問しました。また、この年の9月から10月にかけて開催された白馬会第5回展に銅版画、木版画、水彩画、パステル画などを出品したことも知られています。約10ヶ月の滞在後、帰国したオルリクは、自作と日本での収集品によってヨーロッパの木版表現に新風をもたらすことになります。

    《富士山への巡礼》はこの滞日の成果を示す作品の一つです。白装束に身を包んだ人々が目指すのは、画面右上に白く表された富士山です。菅笠をかぶり、着ござで身体を覆うなど明治時代の富士詣での風俗が捉えられています。橙色の空、緑色の土手、人々の装束の白と黄色といった明澄で多彩な色あいは、来日前のオルリクの木版画にはなかった特徴です。

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    エミール・オルリク《富士山への巡礼》1901年 パトリック・シモン・コレクション、プラハ

    またオルリクは東京で木版画のほかに自画石版も試みました。石版、すなわちリトグラフが石版工による複製印刷技術とみなされていた東京で、オルリクは自ら版に描画し、詩情あふれる東京風景を制作しました。《東京の通り》には色とりどりの暖簾を掛けた商店が並ぶ通りが明るい色調で描かれています。画家の手の動きがそのまま反映された写実的なスケッチですが、「古市」と染め抜かれたのれんの下に見える表札には、「ヲールリク」とカタカナで名前を入れる遊び心も発揮されています。

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    エミール・オルリク《東京の通り》1900-01年 宮城県美術館

    石版工だった織田一磨は印刷所でオルリクの石版画を目にして感銘を受け、後に東京や大阪の風景の連作版画を制作します。オルリクの自画石版は、芸術表現として版画を作ろうとした日本の画家たちに大きな影響を与えたのです。

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    展示風景。織田一磨の東京風景(千葉市美術館)、大阪風景(個人蔵)の連作。

     

    (k.y.)

     

  • 2020年04月28日 ブログで展覧会気分(1)

    新型コロナウイルス感染拡大防止のため、当館はただいま休館しています。
    休館中は「日・チェコ交流100周年 ミュシャと日本、日本とオルリク めぐるジャポニスム」展を会場でご覧頂くことは叶いませんが、せめてウェブ上で展覧会の気分を味わっていただこうとブログにて内容をご紹介したいと思います。

    本展は、日本とチェコの外交関係が2020年に100周年を迎えることを記念して企画されたもので、19世紀後半から20世紀初め頃のジャポニスムの時代における表現の東西相互の交流をテーマとしています。日本で最も知られているチェコの画家といえば、やはりアルフォンス・ミュシャの名が上がることでしょう(「ムハ」の方がチェコ語の発音に近いですが、日本では「ミュシャ」として広く知られているため、本展ではこの呼び方を採っています)。

    パリで絵を学び、挿絵画家としても活躍していたミュシャを一躍有名にしたのは、女優サラ・ベルナールのために1895年に発表されたポスター《ジスモンダ》でした。リトグラフを縦に2枚継いで高さ2メートルを超える大型に仕上げられたポスターは、流麗な線描、華やかな色合い、そして人物、文字、模様を組み合わせた構図の見事さといった特徴により、大衆の眼を惹きつけると同時に、ポスターという媒体による表現の可能性を芸術家たちに示すことになりました。以後、ミュシャはさまざまな広告ポスターや、装飾パネルと呼ばれる広告ではない鑑賞用ポスターなどを多く手がけることになります。


    展示風景。右端はミュシャ《「ジスモンダ」ポスター》(インテック蔵)

    今回ご紹介する1898年の煙草用巻紙の宣伝ポスターも、そうした大型ポスターの1点です。円形の枠と女性像の組み合わせ、ダイナミックに波打つ髪の曲線などにミュシャらしい特徴が表れています。商品名の「JOB」の3文字を巧みにデザイン化した女性の胸元のブローチと背景のパターンも見どころです。


    ミュシャ《「ジョブ」ポスター》 1898年 三重県立美術館

    そしてこのポスターは1900年にフランスへ留学した洋画家・浅井忠がパリの部屋に貼っていたものとしても知られています。浅井ばかりでなく、黒田清輝ら1900年にパリで開催された万国博覧会を機に洋行した画家たちはミュシャや他の画家たちのポスターなどを参考資料として日本へ郵送したり持ち帰ったりしました。インターネットもSNSもなく、パリへは船で1ヶ月ほどかかった明治時代には、印刷物は海や大陸を渡って日本へもたらされたのです。この洋行を機に、浅井忠は図案研究に開眼しました。また、黒田の持ち帰った「広告画」に触発され、図案家を目指した杉浦非水のような画家もいます。浅井の部屋に貼られていたものと同図の「ジョブ」ポスターは、ミュシャの代表作であるばかりでなく、日本の画家たちによる受容を象徴する1点ともいえましょう。

     

    (k.y.)