過去の展覧会

スイス プチ・パレ美術館展

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1874年、官展の保守的な体制に不満を覚えた画家たちが、自由な作品発表の場を求めてグループ展を開催します。主な参加メンバーはクロード・モネ、オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロらでした。モネの出品作《印象、日の出》を揶揄したルイ・ルロワの批評から派生して、彼らは印象派と呼ばれるようになります。その後、1886年に至るまで全8回のグループ展が開催されました。
印象派の画家たちは鮮やかな画面を作り出すために、絵具を混ぜずに純度の高い色彩を並置する筆触分割を取り入れました。筆跡が残るこの技法は、自然の移ろいや人物の生動感を表現するのに適していました。
1880年代頃からは各々の芸術観に従い、多様な作風を展開。なかでもルノワールは、明瞭な輪郭線を特徴とする古典主義的な様式を経て、晩年には薄い絵具の層を重ねてみずみずしい色調を作る独自の手法を開拓しました。

鮮やかな画面を求めて
鮮やかな画面を求めて
ギュスターヴ・カイユボット
《子どものモーリス・ユゴーの肖像》 1885年
ルノワール晩年の肖像画
オーギュスト・ルノワール
《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》
1913年

人気画家ルノワールに絵筆を握らせた美貌の持ち主
アリス・ヴァリエール=メルツバッハ


本作品に描かれているのは、後に詩人となるアリス・ヴァリエール=メルツバッハです。アリス・ジョルジュ・ヴァリエールというペンネームを用い、『黄昏』(1952年)をはじめとする4冊の詩集を発表、象徴主義的かつ感傷主義的な作風を確立しました。
メルツバッハがどのようにしてルノワールと知り合ったかは明らかでありませんが、彼女の手記には本作品をめぐるエピソードが記されています。当時、人気画家として経済的にも余裕のあったルノワールは、親しい愛好家や画商からの肖像画制作しか引き受けていませんでした。メルツバッハから依頼をされた際も最初は難色を示しますが、帽子を取った彼女の容姿を見て態度を一変。制作を引き受け、白いサテン地のドレスを彼女に着せ、嬉々として制作に励んだといいます。

参考文献
Exh. Cat., Renoir au XXe siècle , Paris : Grand Palais, 2009, p. 290.

1886年、ジョルジュ・スーラとポール・シニャックはピサロに誘われ、最後の印象派展に参加します。彼らの作品には、色とりどりの小さな点が規則正しく敷き詰められていました。この展覧会に足を運んだ批評家のフェリックス・フェネオンは、そこに印象派を超える新たな芸術の到来を見出し、新印象派と命名します。
新印象派の新しさは、印象派が用いた筆触分割を科学的な光学理論によって体系化したことにありました。画家たちは絵具の濁りを避けるために点状の均一な点を並べ、さらに補色の関係にある色を隣接させることで鮮やかさを追求したのです。「分割主義」あるいは「点描法」と呼ばれるこの技法はスーラが開拓し、アルベール・デュボワ=ピエ、アンリ=エドモン・クロス、マクシミリアン・リュスを筆頭に多くの画家がこれに倣いました。

美術と科学の融合
美術と科学の融合
アルベール・デュボワ=ピエ《冬の風景》 1888-89年
アンリ=エドモン・クロス《遠出する人》 1894年
テオ・ファン・レイセルベルへ
《ファン・デ・フェルデ夫人と子どもたち》
1903年

新印象派の登場からほどなくして、ブルターニュ地方のポン=タヴァン村では新たな絵画様式が生み出されます。同地で活動したエミール・ベルナールは、原色に近い平坦な色面を黒い輪郭線で囲むクロワゾニスム様式を考案し、さらにゴーギャンは反写実的なこの描法によって、自らの精神世界を表現することを試みました。
1888年、ポン=タヴァンを訪れたポール・セリュジエを介して、彼らの実践はパリの画家達の知るところとなります。モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、ポール=エリー・ランソンらはゴーギャンの芸術に強い感銘を受け、平面的な絵画様式によって神秘的な宗教主題を描き、ヘブライ語で「預言者」を意味するナビ派を名乗りました。また彼らは浮世絵に代表される日本美術からも大きな影響を受けたことが知られています。
ナビ派の中でもドニやボナールなど日常の室内風景を取り上げ、身近な人々に対する情感を表現した画家達は親密派と呼ばれました。

平坦な色面と内的な表象
平坦な色面と内的な表象
平坦な色面を黒い輪郭線で囲む
クロワゾニスム様式
ポール=エリー・ランソン《海辺の風景》 1895年
クロワゾニスムの始祖、
印象派時代の一点
エミール・ベルナール《カンカルの浜辺》 1886年
身近な人々に対する情感を
表現した「親密派」
モーリス・ドニ《休暇中の宿題》 1906年

1905年、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、アンリ・マンギャンらは、パリで開催された展覧会、サロン・ドートンヌに、鮮烈な色彩で描かれた絵画を出品しました。批評家のルイ・ヴォークセルが、荒々しい色遣いを「フォーヴ(野獣)」と形容したことから、彼らはフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれるようになります。
フォーヴィスムの独創性は、固有色を離れた大胆な色彩によって、内的な感情を表現したことにあります。その先駆者としてはゴッホやゴーギャンが挙げられますが、新印象派の画家たちもこの美術潮流の形成に大きな役割を果たしました。とくにマティス、ルイ・ヴァルタ、マンギャンらは南仏のシニャック邸を訪れ、この新印象派画家と親交を深めたことが知られています。彼らは色彩で自律的な絵画空間を作る手法を新印象派から学びつつ、点を離れ、色の表現性へと重点を移していったのです。

色彩の解放
色彩の解放
アンリ・マンギャン《ヴィルフランシュの道》 1913年
ルイ・ヴァルタ《帽子を被った女の肖像》 1895年
ラウル・デュフィ《マルセイユの市場》 1903年

色彩の表現性を追求したフォーヴィスムに対し、キュビスムは形態の革命をもたらしました。1908年頃からパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックは、幾何学的な形態に則して自然を模倣したポール・セザンヌからの影響のもと、伝統的な遠近法と一線を画する新たな空間表現を取り入れるようになります。それは対象を複数の視点から捉えた幾何学的な面に分解し、平面上で再構成するというものでした。彼らの作風はモチーフを切り子面に分解する「分析的キュビスム」の時期を経て、文字や新聞の切り抜きなどの現実的な要素を取り込む「総合的キュビスム」へと移行していきました。
ピカソとブラックは大規模な展覧会への出品を行わず、カーンワイラー画廊を作品発表の場としていましたが、1911年、アルベール・グレーズ、ジャン・メッツァンジェ、フェルナン・レジェら5人の画家は、キュビスム様式の作品をアンデパンダン展で発表。これを機にキュビスムはパリの大衆に広く知られるようになります。さらに翌年、グレーズとメッツァンジェは『キュビスムについて』を刊行し、この芸術運動の理論化に貢献しました。

空間表現の革命
空間表現の革命
キュビスムの理論的立役者、
グレーズとメッツァンジェ
アルベール・グレーズ《座る裸婦》 1909年
ジャン・メッツァンジェ《スフィンクス》
1920年
マリア・ブランシャール《静物》 1917年

1910年代から30年代にかけて、パリのモンマルトルとモンパルナスには多くの画家が集い、個性豊かな芸術表現を展開しました。彼らは明確な芸術理論を掲げることはありませんでしたが、具象的な絵画表現を追求した点で共通し、エコール・ド・パリ(パリ派)と総称されます。ポーランドのモイズ・キスリング、ブルガリアのジュール・パスキン、日本の藤田嗣治など、その多くは外国に出自をもつ画家たちでした。なかでもシャガールやキスリングが住んだモンパルナスの共同住宅兼アトリエは、エコール・ド・パリの拠点として知られています。
一方、ポスト印象派とはセザンヌ、ゴーギャン、ナビ派、フォーヴィスム、キュビスムなど、印象派の超越を目指した画家たちの総称です。彼らは一時は前衛的な絵画表現を取り入れましたが、この時期には第一世界大戦がもたらした社会不安の中で、古典主義や具象芸術に立ち返りました。「秩序への回帰」と呼ばれるこの傾向は、キュビスムのピカソやフォーヴィスムのドランの作品に顕著に現れました。

個性の開花と古典への回帰
個性の開花と古典への回帰
エコール・ド・パリを代表する
親子画家の競演
モーリス・ユトリロ《ノートル= ダム》 1917年
ユトリロの母
シュザンヌ・ヴァラドン
シュザンヌ・ヴァラドン《コントラバスを弾く女》1908年
ジョルジュ・ボッティーニ
《バーで待つサラ・ベルナールの肖像》
1907年
モイズ・キスリング《サン= トロペのシエスタ》
1916年

いずれも ASSOCIATION DES AMIS DU PETIT PALAIS, GENEVE


プチ・パレ美術館の創設者、オスカー・ゲーズ

1905年、チュニジアのスースに誕生。10歳で家族とともにマルセイユに移り、商業系グランゼコールを卒業する。第一次世界大戦を経てイタリアに転居し、兄のアンリとともにローマ郊外にゴム製品の会社を創設。第二次世界大戦中にはアメリカに亡命するが、戦火がやむとフランスのリヨンで事業を再開した。
その後、相次ぐ家族との死別で悲嘆にくれるなか、絵画収集を本格化。エコール・ド・パリを代表する藤田、ヴァン・ドンゲン、キスリングらと知り合う。抽象画よりも個人の体験をもとにした具象画を好んだ。1960年代には事業を売却してコレクションを拡大。スイスのジュネーブに購入した新古典主義様式の邸宅を1968 年に一般公開してプチ・パレ美術館と命名する。
コレクションは19世紀後半から20世紀前半にパリで描かれた絵画が大半を占め、カイユボットやシュザンヌ・ヴァラドンなど、当時正当な評価を得られていなかった画家の作品も含まれる。「平和に奉仕する芸術」の理念のもとに作品収集に努めたゲーズ氏は、フランスのレジオン・ドヌール勲章をはじめ、各国の勲章を受勲した。1998年に没した後、美術館は現在に至るまで休館しているが、ゲーズ氏の遺志を引き継ぎ国内外の展覧会に出品協力をしている。