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杉浦非水 時代をひらくデザイン

第1章 図案との出会い

東京美術学校日本画科在学中の写生や、師の黒田清輝や盟友中澤弘光との交流をうかがわせる作品、美術学校卒業後の仕事など非水の若き日の足跡をたどります。

中澤弘光《非水像》明治34年(1901)
東京国立近代美術館

非水が中澤弘光とともに黒田清輝邸に寄寓していた頃に描かれた肖像。マッチの火はすぐに消えてしまうため、非水はろうそくを持って一週間ほどモデルを務めたといいます。

『富士山スケッチ』より 明治40年(1907)
金尾文淵堂発行 愛媛県美術館

美術学校卒業後、非水は大阪の三和印刷店勤務、島根での中学校教師生活を経て、明治38年に東京中央新聞社に入社します。富士山八合目に電話が開通した際には記者とともに登山し、山麓の名所や頂上の様子などを描いた『富士山スケッチ』を出版しました。

第2章 図案の開拓者

非水は明治41年(1908)、中央新聞社に在籍しながら三越呉服店に夜間勤務嘱託として入店。明治43年(1910)意匠部から図案部が独立すると非水は初代主任となり、以後27年にわたってポスター、PR誌、パッケージなどを一手に担いました。多忙になり中央新聞社を退職した後も三越では嘱託の身分を貫き、並行してほかの企業のデザインや、装丁、雑誌の表紙などを手がけました。また、「書籍装幀雑誌表紙図案展覧会」を開催したり、中澤弘光らと美術団体「光風会」を創立し図案を出品したりと精力的に制作と発表に打ち込みました。

《三越呉服店 春の新柄陳列会》大正3年(1914)
愛媛県美術館

非水が初めて本格的に手がけたポスター。春の新柄陳列会というテーマにふさわしく、桜草、シャクナゲ、チューリップ、蝶など春から初夏のモチーフをふんだんに用いて、三越が提案する豊かな暮らしを巧みに視覚化しています。単純化された装飾文様は非水自身が「ヴィンナ・セッセッション風」と述べたように、ウィーン分離派などの影響を受けた、幾何学的な文様が特徴的です。

『THE TOURIST』Vol.XII No.3
大正13年(1924) 愛媛県美術館
「書籍装幀雑誌表紙図案展覧会」会場写真(『非水アルバム帖』より)
明治45年(1912)撮影 愛媛県美術館

第3章 自然に学ぶ―写生と図案

「自然には新らしい図案が無限にある。新らしい材料が無限に供給されてゐる。此自然の材料を独自の技巧に依つて生かして行くのが、図案家の真の仕事ではないか。*」と語る非水は、自然と対峙しその神髄を捉えることを自らの創作の根幹に据えていました。この章では、創作の原点となるスケッチや、写生から生まれた図案のほか、非水が撮影した写真や映像を紹介し、非水の自然へのまなざしを探ります。

*「図案に就ての雑感」『美術旬報』第151号、大正7年2月
『非水百花譜』(昭和版)より
昭和4-9年(1929-34) 愛媛県美術館

『非水百花譜』は大正9年から2年半をかけて春陽堂から限定600部が頒布されました。非水が原画を描き、当代の名人が彫りと摺りを手がけた多色摺木版は、細部まで繊細に表現されており、自然の造形に対する非水の関心を物語ります。関東大震災で版木が焼失しましたが、非水の手元に残されていた原画から昭和4年に再び発行されました。

『非水一般応用図案集』より
大正10年(1921) 愛媛県美術館

第4章 非水が目指したもの、のこしたもの

大正11年(1922)、非水は念願の洋行を果たします。1年足らずの滞在でしたが、フランスを中心にドイツ、イタリアなどを訪問し、ポスターなど参考資料の収集に努めました。「アール・デコ」と呼ばれる、明快で幾何学的な装飾芸術のスタイルが流行し始めていたヨーロッパの実情に触れて帰国した非水の作風は、よりモダンでシャープなものへと展開します。また、大正14年(1925)に国内初の図案研究団体「七人社」を結成し、デザインの重要性を世にアピールしたり、昭和10年(1935)の多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)創立に加わり、校長兼図案科主任教授となって後進の育成に携わるなど、日本の図案界の発展にも尽くしました。

『アフィッシュ』第1年第1号
昭和2年(1927) 愛媛県美術館
『非水創作図案集』より
大正15年(1926) 愛媛県美術館
『大阪の三越』第6年第11号
昭和5年(1930) 愛媛県美術館
《東洋唯一の地下鉄道 上野浅草間開通》
昭和2年(1927)

アジア初の地下鉄開通を告げる本ポスターは非水の代表作であり、近代日本のポスターの名作の一つでもあります。電灯がともされた明るい地下ホームに大勢の人々が集い、とりわけ目立つ前景にはモダンな洋装の家族連れが描かれています。大胆な構図や単純で力強い色と形には、非水が洋行で学んだアール・デコの影響がうかがわれます。