これからの展覧会

1 竹内栖鳳塾での学び
(1903-1909年・14歳~20歳)
1903年、14歳で京都にのぼり竹内栖鳳に入門した小野英吉は、師より「竹橋」の雅号をもらい、四条派の筆法と西洋近代絵画の空間表現を融合した作風を学びました。
貴重な初期の作例

第二回文展出品

2 西欧近代絵画の受容
(1910-1917年・21歳~28歳)
1909年、京都市立絵画専門学校別科に進んだ竹喬は土田麦僊、野長瀬晩花らと出会います。1910年には《暮るる冬の日》が美術評論家・田中喜作に好評を得て美術懇話会「黒猫会」(後に「仮面会」)の活動に参加、印象派や新南画の技法を摂取するなど探究を続け、1916年の第10回文部省美術展覧会(文展)に出品した《島二作(早春・冬の丘)》で特選を受賞しました。
第十五回新古美術展三等賞銅牌を受賞

第十回文展特選

3 渡欧を経た、西洋から東洋への歩み
(1918-1928年・29歳~39歳)
3 渡欧を経た、
西洋から東洋への歩み
(1918-1928年・29歳~39歳)
1918年、文展から離脱した竹喬は、土田麦僊、榊原紫峰、村上華岳、野長瀬晩花らと国画創作協会を設立。同年開催した第一回国展で《波切村》を出品します。写実を徹底的に追求しようとしますが、日本画における写実表現は可能かという壁にぶつかり、1921年に麦僊と渡欧します。イタリアでは中世のフレスコ画に関心を抱き、東洋の古典絵画の見直しを期することとなります。また帰国後「竹喬」と雅号を改めました。
技法で描き分ける




風景表現の可能性を拓いた国画創作協会第一回展出品作


4 古典絵画の見直し、南画から大和絵へ
(1929-1945年・40歳~56歳)
4 古典絵画の見直し、
南画から大和絵へ
(1929-1945年・40歳~56歳)
1929年、かつて反旗を翻した官展に復帰した竹喬は南画風の点描や池大雅を意識した表現を追求します。1937年頃からは線描を主体としながら次第に簡略化された明快な画面構成へと向かい色彩を重視するようになります。また1939年の第3回新文展に出品した《清輝》は、おおらかな線描に色面で立体感を表そうとし、画業の大きな分岐点となりました。そして戦後、静謐な中に温かみのある画風へとつながっていくのです。
第三回新文展出品作の習作

竹喬の悲痛を物語る

5 無心の境地から生まれる絵画を目指して
(1946-1965年・57歳~76歳)
5 無心の境地から生まれる
絵画を目指して
(1946-1965年・57歳~76歳)
このころの竹喬の作風は、造形は単純化され、象徴的な域に入っていきます。色彩は自然の微妙な表情を捉えつつも明快であり、色彩の画家・竹喬の印象を高めていきます。竹喬を代表する画題「茜空」もこの頃より数多く描かれるようになりました。戦後の竹喬は徹底した対象の単純化と象徴化を図っていきますが、純粋な視覚体験を保持しつつ素直な心象風景を描き続けました。
竹喬の日展初出品作

美しい素描にも注目

6 至純な心の風景への旅
(1966-1979年・77歳~89歳)
竹喬は画風が固定化することを拒み、制作の上で絶えず「新鮮」ということを念じ作品を描きました。自然を「風景の中にある香りのようなもの」ととらえ、自然のささやかな息遣いに視線を注いだ竹喬の柔和で純粋な感性は、至純な心の風景へと向かいます。1976年には晩年の代表作《奥の細道句抄絵》を発表。同年秋に文化勲章が授与されました。また最晩年の竹喬は水墨画にも挑戦し1979年に89歳で死去するまで新たな創造の可能性を探究し続けました。



