• 2016年07月06日 相原家と安田家

    安田靫彦は、明治42年、新井旅館の相原沐芳の招きで、病気療養のため約5か月間新井旅館に滞在したこと、また44年末まで沼津で静養に努めたことがきっかけで、沐芳と生涯、家族ぐるみで交流が続きました。

     

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    「相原家と安田家」とした本章では、毎年、いわばお年賀として、靫彦が相原家に描き贈った毎年の干支の絵が飾られています。二回りも贈られたということですが、本展でご紹介できるのはその一部にすぎませんが、表現描写の多様さをみていただこうと数点選んでみました。

     

    例えば、鳥獣戯画を思わせる月で餅つきをする兎や、俵屋宗達の牛図とはまた違った滲みと暈しを駆使した牛、写生的な犬、また十二天より干支を選んだ白描風の作など、靫彦の古典古画学習がうかがえる、楽しい動物コーナーとなりました。

     

    奥に見える屏風はこのブログの初めの方で紹介した「十二支扇面屏風」同様、直接屏風に扇型を描いているもので、十二支扇面同様、靫彦ら紅児会メンバーが明治末に描いたものに、昭和になってから、相原家より大磯の安田家に屏風が持ち込まれ、靫彦の弟子たちが筆を加えて完成させたものです。

     

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    そらから、新井旅館より特に本展に際して拝借した「相原浩二君壽像」は、まさに相原家と安田家の交流の証です。

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    また、ふわふわの産毛の赤ちゃんが赤いチャンチャンコを着て座っていますね。これは明治43年3月31日生まれの沐芳の息子で四代目主人の相原浩二、生後3ヶ月頃の姿です。

     

    30年後の昭和14年、赤ちゃんだった浩二君が結婚することになり、靫彦が沐芳に頼まれて記した箱書には、浩二君がまたオシメをしていた頃の肖像画であること、30年の月日を経て、浩二君が結婚するに際し餞のことばが認められています。

     

    さらに2年後の沐芳の箱書には、箱蓋を覆う赤い生地は、当時浩二が常に身に着けていた、描かれたモスリン地であること、これを浩二の母が大切にしまっていたことが記されています。

    相原家と靫彦の温かな交流、親子の愛情が感じられる作品です。

     

    *本展出品の伊豆市コレクション以外の出品作(例えば「沐芳人相書」「相原浩二君壽像」「相原沐芳像」「かちかち山」など)をまとめた小冊子を伊豆市所蔵品目録とともにセットで販売しています。詳しくはミュージアムショップへ!!

     

    (e.y.)

     

     

  • 2016年07月05日 苦心の力作・紫紅「枇杷叭叭鳥」のエピソード

    新井旅館の沐芳コレクションは掛軸だけではありません。展示室にはこんなに立派な六曲一双屏風が展示されています。奥の金屏風は横山大観の筆にかかるもの、手前の屏風は靫彦の盟友で、36歳で夭折した今村紫紅の作品です。

     

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    みなさん、ぜひ、この屏風の前に立ってみてください。そして右に左に、前に後ろに、ゆっくり歩いてみてください。きっと枇杷畑の中を歩いているような気分になると思います。画面には、左右にそれぞれ1本ずつ、2本の枇杷(びわ)の木が描かれ、5羽の叭叭鳥を配しただけですが、屏風の枠を超えて大きな空間が広がっています。

     

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    この大きな空間の広がりは、菱田春草「落葉」などの影響も指摘されるように、輪郭線を描かない、没骨法と呼ばれる手法で樹木を描いていることにもよりますが、何より、白っぽい樹木の幹や枝の配置、黒い叭々鳥の配置の工夫、つまりは紫紅の”構図の妙”にその秘密があるように思います。右の枇杷の樹木は、根本を描き、太い幹の上部は途中で切れていますが、左は上下とも切って、細い幹と枝葉を屏風の左に寄せて描いていますね。

     

    ところでこの屏風、紫紅にとっても会心の作だったようです。

    “とある作品”の沐芳の箱書によれば、沐芳から六曲屏風を依頼された紫紅は、特に構図に苦心してこの屏風を仕上げ、修善寺の沐芳の元までもってきました。ところが、生憎、沐芳は上京中。沐芳に制作の苦心談とともにこの屏風を届けようと思ったのに、、、とたいそう悔しがった紫紅は、たまたま新井旅館に逗留していた紅児会の仲間たち、石井林響や広瀬長江らにそそのかされて、ついに、沐芳を”指名手配”したのです。

     

    会場写真伊豆 030.JPG

     

    これが、その”とある作品”、相原寛太郎の人相書、つまりは指名手配!です。

    沐芳さん、なんだか歌舞伎にでてくる悪役のような出で立ちですね。

    「年の頃三十七、八。身の丈、五尺二三寸、眼光鋭く、色真黒く、眉毛太く、中肉中丈の好男子と自ら云う者なり」なんて書いてあります。見つけ次第代官所へ訴えれば、恩賞をたっぷりいただけるとも!

     

    紫紅は親分肌で心優しい人だったようで、病気がちな靫彦を心配して沼津に引っ越して近所に住んであげたりと、靫彦と性格は反対だけど大の仲良しだったようです。沐芳さんとも、こんな人相書きの悪戯ができるような、親友だったのでしょう。

     

    沐芳さんはこの人相書をとても面白がって、丁寧に表装して、箱書を認めています。そこにはこの屏風納品時のこの楽しいエピソードとともに、夭折した紫紅と今や芸術談義を交わすことができない無念の情が尊敬をもって記されています。

     

    それにしても沐芳コレクションでいえば、石井林響、広瀬長江、また天才速水御舟もこの紫紅も、優れた画家ほど30代40代で命を失っているような気がします。

     

    最後に、本屏風の隣の大幅「鷲」は、本当にスゴイ絵だと思います。あんな作品、紫紅以外、描けないでしょう。おそらく赤曜会出品作だろうとされる作品で、新しい日本画を真摯に模索し、墨の使い方などは中国の明清時代の文人画などに想を得たのでしょうが、それにしてもあんな大きな鷲をあんな大きな紙に!お化けのようです。とても解説なんて書けません!紫紅はやっぱりすごい画家、大親分だなと展示室でつくづく思いました。

     

    (e.y.)

     

     
     

  • 2016年07月03日 古径と青邨の燈籠大臣(とうろうのおとど)

    安田靫彦(やすだゆきひこ)をふくめ、後に院展の三羽烏とよばれた小林古径(こばやしこけい)と前田青邨(まえだせいそん)は、共に、歴史画を得意とした梶田半古塾の兄弟弟子でした。沐芳さん(修善寺・新井旅館三代目主人 本名:相原寛太郎)は、この二人が描いた同じ主題の作品を所持しています。

    本展では、基本的に作家ごとに作品を紹介していますが、この二幅だけは、特に並べて展示しています。

     

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    右 小林古径筆「重盛(しげもり)」明治44 年 28歳 伊豆市蔵

    左 前田青邨筆「燈籠大臣(とうろうのおとど)」 明治末 20代半ば 伊豆市蔵

     

    両方とも、烏帽子をかぶり、白い直衣を纏った人物が描かれ、まるで中尊寺金色堂のような柱、燈籠が描かれていますね。この人物は、平清盛の長子で重盛、別名、燈籠大臣(とうろうのおとど)と呼ばれた人です。『平家物語』によれば、重盛は東山の麓に48間の御堂を建てて、1間ずつ燈籠をかけ、毎月14、15日には女房達に念仏を唱えさせ、自らも願をかけたので、燈籠大臣(とうろうのおとど)と呼ばれた、ということです。

     

    両方を比べてみると、古径は、重盛をほぼ正面から浮かび上がるように描いています。背後にこの物語の場面設定として重要なモチーフである御堂の柱、燈籠(とうろう)をえがいています。そして柱の近くには赤と白の散華(さんげ)がはらはら舞っており、画面に空気が感じられますね。

     

    一方青邨は、念仏を唱える重盛をやや斜め後方から捉え、前景右手には灯りの入った燈籠と、まるで中尊寺金色堂の柱のような螺鈿(らでん)で宝相華(ほうそうげ)と菩薩(ぼさつ)があしらわれた柱、その陰には、華籠(けこ)を持つ童子が描かれています。柄香炉(えごうろ)などの法具もしっかりと写実的に描かれています。散華は舞ってはいませんが、床に色とりどりの散華がちりばめられていますね。燈籠の明かりには炎まで描かれています。どれも精緻に描かれていて、わずかな灯りで照らされた堂内の緊張感が伝わってくる、奥行き感がありますね。

    簡単に言ってしまえば、古径は優しく、ぼおっとした空間表現によって空気を描いていますが、青邨は構図力によって空間を巧みに表現しています。

     

    この時古径28歳、青邨は25、6歳でしょうか、ほぼ同じ時に同じ主題を描いた兄弟弟子のこの表現の違いは、彼らの後年の代表作を考えたとき、既にその個性が認められるといってもいいように私には思えます。特に青邨には後年、余分なモチーフはすべて排除し、画面に凛とした空気を漂わせた人物画の名品がありますが、その萌芽がここにあるように思います。

     

    ちなみに、古径のこの作品は、第14回紅児会展(明治44年3月)出品画です。目録に記載がみえるのです。しかし直後の古径書簡によると、「重盛」は沐芳へのつもりで描いたが、つまらないので見合わせた、とあり、同年9月8日付には「重盛」を沐芳に送ったとあります。いずれにしても、優しい筆の古径ですが、完成後も納得するまで手を加える真摯な姿勢が見て取れます。

    二人の個性を重盛/燈籠大臣を比べてみることで、味わっていただければ幸いです。

     

    (e.y.)

     

     

  • 2016年07月02日 紅児会の広瀬長江(ちょうこう)と興津・耀海寺(ようかいじ)

    私が広瀬長江の作品に初めて会ったのはもう15年ぐらい前のこと。それは、月明かりのもと、舟遊びをする唐美人が描かれた、透明感のある印象深い一幅でした。2003年、城西国際大学水田美術館にて『房総の素封家と近代日本画壇―大観・紫紅とその周辺』展で紹介するにあたり、長江は33歳で夭折したこと、紅児会(全19回のうち)に13回も出品した、紅児会の画家であることを知りました。

    新井旅館との縁も深く、安田靫彦を沐芳に紹介したのも、また紅児会に前田青邨を紹介したのも長江だったようです。明治40年代の寄合描は、安田靫彦、石井林響、広瀬長江、浅野未央の4人によるものが目につきます。

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    例えば、十二支扇面散。

    因みに、福地山修禅寺の方丈様お気に入りの寅年の絵は長江です!

    また、桃太郎の絵巻。桃太郎と犬が長江、雉は未央、猿は前田青邨。写ってませんが、その向こうに靫彦の赤鬼青鬼が描かれてます。

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    伊豆市所蔵品の6点の長江作品からは江戸の浮世絵や近世初期風俗画が連想されるものが多いように思います。東京生まれの長江ならではの、”江戸のよすが”が感じられる”粋”で素敵な作品ですね。
    夜の吉原道中を銀地の屏風で表現しています。キラキラした細い川も流れています。

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    注目したいのは、左側のこの作品。

    広瀬長江筆 「若衆と娘(わかしゅとむすめ)」 明治末~大正初 [24~26歳頃]

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    金地の背景に浮世絵風に描かれた娘が、若衆の手の棘(とげ)を抜いています。

    おそらくこれは、井原西鶴「好色五人女(こうしょくごにんおんな)」の「八百屋お七(やおやおしち)」の冒頭のお話ではないでしょうか。つまり、火事でお七と母とが駒込吉祥寺に避難し、その寺の小姓(こしょう)・吉三郎の棘を、お七が抜いてあげる場面です。この出来事がきっかけで、お七と吉三郎が人目を忍ぶ仲となるのです。

    「八百屋お七」のテーマは、錦絵(浮世絵版画)では、吉三郎会いたさに、再びお七自ら火事をおこし、火の見櫓に上る姿がよく描かれます。例えば月岡芳年の作品など印象的ですね。近代以降も八百屋お七は、鏑木清方(かぶらぎきよかた)らの作例が知られ、雑誌の挿絵では棘ぬきの場面もしばしば描かれているようです。

    長江のこの作品は、お七と吉三郎、二人とも初心な雰囲気がよく描かれていますね。

    それから、もっと若い時の、勝仙と称した頃の作品も展示しています。

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    広瀬長江筆「観桜(かんおう)」明治末 [24~26歳頃] 伊豆市

    桜の花が散る中、古典絵巻から出てきたような高貴な人物や童子、お坊さんたちがお花見をしている場面ですが、描かれた人々はどこか、悲しそうな物憂い表情をしていますね。これは何を描いているのか、目下研究中ではありますが、花吹雪、貴族の花見、物悲しい場面であることから、下村観山「熊野観花(ゆやかんか)」や木村武山「熊野(ゆや)」同様、平家物語を下敷きにした謡曲「熊野(ゆや)」の別れの場かもしれない、と私はおもっています。

    熊野のお話は、こんな話です。

    平清盛の三男宗盛は、遠江の病の母のため暇乞いする愛妾(あいしょう)・熊野の帰国を許さず、清水寺(きよみずでら)の花見で舞を舞わせますが、散る桜を目にした熊野が、母の元に帰りたいと歌を詠むと、宗盛は帰国を許す、というものです。

    皆さんはどう思われますか?縦長の掛軸に、上部の大きく余白をとる構図、こうした画題選択は、紅児会風であるといわれています。

    日本画革新を追求した紅児会(こうじかい)で活躍していた長江は、静岡市内、清水区の興津にある、耀海寺(ようかいじ)の檀家・佐野家の「ゆき」と結婚しました。妻の実家の地元では、明治44年(1911)には「潮光会(ちょうこうかい)」という後援会が発足し、興津の他、となり町の由比などでも、画会や頒布会が行われています。大正2年(1913)、紅児会は解散しますが、この頃、すでに長江は結核を患い、興津で療養していました。友人・靫彦の書簡によれば、翌年11月、多量の喀血があり、横山大観ら画家たちが見舞金集めに奔走したといいます。

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    大正6年(1917)5月3日、長江はこの耀海寺墓地に葬られました。長江の墓は今も、同寺の墓所にあります。お墓の背面には、画友や支援者、32名の名が刻まれていますが、その中に、前田青邨、安田靫彦、中村岳陵、牛田雞村、速水御舟、小林古径ら紅児会の画家仲間とともに、左下には「相原寛太郎」つまり沐芳の名前も刻まれていました。

    (e.y.)

  • 2016年06月29日 静岡市まちかどコレクション ワークショップ「”フォトモ”で再現 静岡の”まちかど”」開催のお知らせ

    ワークショップのお知らせです。

     

    美術家・写真家の糸崎公朗さんを講師に招き、

    みんなで静岡のまちを歩いて撮った写真をもとに、

    立体的に”まちかど”を再現する作品「フォトモ」をつくるワークショップです。

    実施日:7月23日(土)・30日(土)

    対象:中学生以上24名

    詳細はこちら

     

    「フォトモ」・・・聞きなれない言葉ですよね。

    フォトグラフ(写真)+モデル(模型)の造語で、

    写真を立体的に組み立て、3次元化する手法のことです。

     

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    糸崎さんは、路上を歩きながら街並みを観察するのが大好きで、

    カメラを片手に、よく街歩きをされるそうです。

     

    1枚の写真では、路上の面白さを撮りきれないと感じた糸崎さんは、

    その面白さを丸ごと表現するために、

    この「フォトモ」という表現にたどり着いたのだそう。

     

    1枚の写真では到底表現しきれない、

    現実以上にリアリティを感じさせる「フォトモ」。

    そこからは、被写体となった場所の空気感や時間の流れ、

    そして、制作者ひとりひとりの世界観をも感じることができ、

    いつまでも見入ってしまいます。

     

    「なんだか難しそう」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、

    ユーモアあふれる講師の糸崎さんの指導により、

    どなたでも楽しみながら「フォトモ」で作品がつくれますのでご安心を!

     

     

    実は静岡市美術館では今までに2回、フォトモワークショップを実施しています。

     

    初回は静岡市美術館が開館したばかりの2011年。

    なんと5日間・計25時間かけ、参加者一人一人が街歩きをし、

    撮影した写真を素材に、静岡の街並みをフォトモで再現しました。

     

    ■ワークショップの様子■

    2011/01/16 ワークショップシリーズVol.4 糸崎公朗「フォトモで作ろう!静岡の街」

    https://shizubi.jp/blog/2011/01/vol4.php

     

    2011/02/19 ツギラマ・フォトモ作品、展示します!

    https://shizubi.jp/blog/2011/02/post-31.php

     

    2011/03/06 ツギラマ・フォトモ作品、展示中です!

    https://shizubi.jp/blog/2011/03/post-32.php

     

    2回目は「国宝・久能山東照宮展」にあわせ、

    久能山350年祭当時の絵葉書や古写真などを題材に、

    なつかしい静岡の街並みをフォトモで再現しました。

     

    ■ワークショップの様子■

    2014/11/8 【国宝・久能山東照宮展】フォトモワークショップのご報告&作品展のお知らせ

    https://shizubi.jp/blog/2014/11/post-142.php

     

     

    皆様のご参加、お待ちしております!

     

    ワークショップの詳細・お申し込み方法はこちら

     

    (m.y)

     

     

  • 2016年06月28日 石井林響(いしい・りんきょう)と新井旅館

    今日も朝から一日雨ですが、駅から地下道で直結、雨にぬれずに来られる静岡市美術館です。皆様のご来館おまちしております。

    これから、少しずつ、伊豆市所蔵近代日本画コレクション展に出品されている、相原沐芳と親しく交わった日本画家たちの作品をご紹介します。
    今回の展覧会の調査を通して新たに分かったことも、お知らせします!!

    まずは石井林響。

    彼は、若い頃、天風という号で活躍した日本画家です。新井旅館の沐芳と最も親しく、生涯を通じて家族ぐるみで交流したのは、もちろん安田靫彦ですが、実は、林響は靫彦よりも早くから新井旅館に逗留し、靫彦より長期にわたり滞在していました。沐芳夫妻は、靫彦の仲人もつとめましたが、林響の仲人もまた相原夫妻でした。
    ですから、この展覧会では安田靫彦の次に、林響の作品を並べています。

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    展示室第一室のウォールケース中央にましましているのが、林響の天風落款の「弘法大師」です。

    とても大きな作品で、林響が修善寺に滞在していた、明治41年の国画玉成会(こくがぎょくせいかい)出品画です。

    画面には、顔をやや右に向け、右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に念珠を持って趺座(ふざ)する弘法大師像が描かれます。右端に水瓶(すいびょう)もみられます。

    弘法大師を描いた現存作例は、古くは鎌倉時代よりありますが、いわゆる真如親王(しんにょしんのう)が描いた大師像とよばれる、”椅子に座し、椅子の下に沓が横に脱がれ、水瓶を配す”という古典的な形式に倣いながら、林響は大師自身をクローズアップし、椅子や沓は描かず、光背を描き加え、大幅を十二分に活かした迫力満点の作品にしています。特に目の瞳の表現は、なかなかにリアルで、新しい日本画を模索した若い画家ならではですね。

    ちなみに修善寺温泉には、福地山修禅寺を開創した弘法大師・空海が、桂川の水で病気の父を洗う子どもの姿をみて、川の水ではつめたかろうと、独鈷杵を川に投げ入れ、温泉を湧きたたせたという伝説がありますから、林響は、新井旅館に滞在して、この修善寺ゆかりの伝説を知り、大画面に新しい描法で弘法大師を描いたのではないかと思います。

    千葉出身で東京で洋画家を目指した林響がなぜ新井旅館と縁ができたのかはわかりませんが、この地で制作したからこその画題と表現であったといえるでしょう。

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    石井林響 弘法大師 明治41年[24歳]伊豆市

    そして同じころ描かれた、春風駘蕩 (しゅんぷうたいとう)。

    とても不思議な絵です。三人の中国人物が馬に乗って、柳の緑が爽やかな川辺の道を行く様子が描かれていますが、中央の人は、春爛漫に酔いしれたのか、左右の人物に支えられているのです。こんな不思議なポーズはみたことがありません。因みに箱書は沐芳が記していますが、この作品も林響が修善寺滞在時期ですから、大分たってからの箱書です。

    今回の調査で、この不思議な図は、江戸時代の画譜、吉村周山『和漢名筆画宝』六巻六冊(明和4年刊)中の図像をそっくり写したものであることがわかりました。

    この本書は中国、日本の古名画を収録したもので、このう第一巻「官人馬乗遊之図」として明代の戴文進の作として掲載されていました。

    日本画革新を目指す若き画家が、こうした江戸の版本から中国主題を学んでいたことはとても興味深く思います。因みに林響は最初は洋画家を目指していましたが、東京にでて橋本雅芳に師事し、また国学院の夜学に通って有職故実を学んだといいますから、こうした江戸の画譜、絵手本類も、国学院の夜学で親しんだのかもしれませんね。

    ちなみに、杜甫「飲中八仙歌」で「知章が馬に騎るは船に乗るに似たり。眼花井に落ちて水底に眠る」と謳われた賀知章は大抵、両側を童子に支えらるた姿で描かれますから、この人物は賀知章を描いているのかもしれません。

    (e.y)

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    石井林響 春風駘蕩 (しゅんぷうたいとう) 明治40 年代 [24~26歳頃] 伊豆市

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    吉村周山『和漢名筆画法』六巻六冊 明和4年(1767)刊のうち第一巻「官人馬乗遊之図」より

  • 2016年06月26日 安田靫彦「鴨川夜情」の心持(こころもち)

    今春、東京国立近代美術館では、日本画家・安田靫彦(やすだゆきひこ)の二度目の大回顧展が開催されました。

    若くして岡倉天心にその才を見いだされ、明治、大正、昭和の長きにわたり、常に院展の中心人物として活躍し、昭和53年、94歳でその画業を終えた靫彦の生涯は、常に死と隣り合わせでした。

    実際、古画研究のため選ばれて奈良留学しますが、病気のために中断を余儀なくされてしまいます。

    そんな靫彦を、病気療養にと修善寺温泉に招き、支援したのが、新井旅館三代目館主・相原沐芳(あいはらもくほう)でした。

    このことで以前より友情が深まった二人は、生涯、家族ぐるみの交流が続いたのです。

    また、靫彦を介して、新井旅館には横山大観(よこやまたいかん)、今村紫紅(いまむらしこう)、小林古径(こばやしこけい)、前田青邨(まえだせいそん)ら多くの画家達が出入りしました。

    そんな靫彦と沐芳、そして画家仲間たちの交友を彷彿とさせる一点をご紹介します。安田靫彦「鴨川夜情」です。

    この作品は、京都・鴨川の床で、夕涼みをする3人を描いています。

    細く優しい線で描かれたそれぞれの顔をじっとみていると、何やら楽しい会話が聞こえてきそうですね。

    行燈の灯りに照らされて、川面は静かに動いています。何ともほっとする情景です。

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    安田靫彦「鴨川夜情」昭和9年頃 伊豆市所蔵

    実際、靫彦は、江戸後期の文人・田能村竹田(たのむらちくでん)「柳塘吟月図(柳蔭吟月図)」に記されたエピソードに想を得て、この作品を描いたそうです。

    それは七夕の夜、酒宴を楽しんでいた竹田のもとに、青木木米(もくべい)の家から帰ってきた頼山陽(らいさんよう)がやってきたので、二人は木米の話をしながら鴨川の床で酒を酌み交わした、というもの。

    竹田、木米、山陽は親友同士。互いを思って絵を描き、詩を添えあった、文雅の交わりの証ともいうべき書画が多数残されています。

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    田能村竹田柳塘吟月図(柳蔭吟月図)」(「大風流田能村竹田」所収)

    歴史画の靫彦と言われるほど、靫彦は生涯、古典・古画研究に励みますが、一方で、良寛や江戸の文人達の風雅な世界に憧れて、身近に鑑賞していたといいます。

    実は「鴨川夜情」は、同主題の七絃会出品画を昭和7年に制作した後、改めて靫彦がその試作品に筆を加え、沐芳のために描いて贈った作品なのです。

    靫彦と沐芳らが芸術談義を交わす様子にもみえる本作は、靫彦が親友のために描き、捧げた絵ともいえるでしょう。

    (e.y.)

  • 2016年06月24日 【伊豆市展】1点だけですが、、、展示替えをしました。

    梅雨のうっとおしい季節ですが、連日ご来館ありがとうございます。

    新井旅館の沐芳と若い画家たちの温かな交流によって育まれた、爽やかで清々とした作品が皆様をお待ちしております。

     

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    昨日までは、第二室で、安田靫彦(ゆきひこ)の沼津時代、つまり、新井旅館で最初に静養した直後の作品をご紹介するコーナーでは

    「拈華微笑」(ねんげみしょう)のお隣には、「達磨」が飾ってありました。

     

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    6/12(日)の久野幸子先生によるご講演で、この「拈華微笑」については菱田春草(ひしだしゅんそう)作品との画題の共通点、そして達磨と拈華微笑の背景の樹木の表現について、横山大観作品との共通性についてご指摘がありました。

    展覧会担当としても、二つの作品の共通性を考えてこのような配列にしたのですが、この作品は保存の観点から展示替えが必要です。

     

    今日からは、達磨の代わりに「十六羅漢」が展示されています。

    これも同じ頃、沼津時代の作品です。

    左隣の六歌仙と、群像表現において通じ合うところがあるかしら、と思いながら。

     

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    この展覧会もあと15日で終了です。

    まだご覧になっていない方、JR静岡駅から雨にぬれずに来られる静岡市美術館です。

    また今展では静鉄バスまたは静岡鉄道をご利用の方にルルカポイントも付与されますよ。

    皆様のご来館お待ちしております。

     

    (e.y.)

     

     

  • 2016年05月18日 「没後20年 ルーシー・リー展」関連イベントのご報告

    4月16日(土)に本展監修者の金子賢治氏による

    記念講演会「ルーシー・リーの造形美 現代陶芸のパイオニア」を、

    4月30日(土)に陶芸家の小山耕一氏による

    実演&レクチャー「ルーシー・リーの制作技法について」を開催しました。

    金子氏の講演会では、ルーシー・リーの優美で繊細な形の出自を、

    古代ギリシャや東洋の陶芸との比較、また同時代の潮流も交えてお話頂きました。

    深い考察ながらも軽妙な語りで参加者を飽きさせない、

    長年ルーシー・リー作品を研究されてきた金子氏ならではの講演会となりました。

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    小山氏のレクチャーでは、掻き落とし、象嵌、スパイラル(練り込み)など、

    ルーシー・リーに特徴的な技法について実演を交えてお話頂きました。

    目の前で轆轤を挽き、加飾していく姿に惹きこまれ、あっという間の2時間でした。

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    「没後20年 ルーシー・リー展」は5月29日(日)までの開催です。

    白を基調としたニュートラルな空間でルーシー・リー作品をお楽しみ頂けます。

    どうぞお見逃しなく。

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    (a.i)

  • 2016年05月17日 都市の陶芸家 ルーシー・リー

    ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれたルーシー・リーが、

    ナチスによるオーストリア侵攻を機にロンドンへ避難してきたのは1938年のこと。

    翌年ハイド・パーク周辺のアルビオン・ミューズと呼ばれる場所に住居兼工房を見つけます。

    リーはこの工房で1995年に亡くなるまでの約60年制作を続けました。

    小さく高い高台と口縁部が広がった薄作りの鉢、

    パーツを組み合わせて作り出された伸びやかな花器。

    さらにそれらフォルムと一体となった、目を惹く鮮やかな釉薬。

    様々な実験を経て、ルーシー・リーならではのスタイルが生み出されました。

    リーが使用していた電気窯は、高温焼成が可能で、

    素焼きをせずに一回の焼成しか行わないという、彼女の最も特徴的な作陶を可能としました。

    また設置場所が省スペースで済み、さらに燃料で炊く窯のように

    炎の偶然性に左右されにくいという利点もあります。

    釉薬の研究や実験を繰り返しながらフォルムや色を追求し、

    意識的なものづくりを半世紀以上にわたって続けたリーの芯の強さ。

    これが、彼女の華やかな作品のなかに漂う、凛とした気品に繋がっているのかもしれません。

     

    本展では初期から晩年にいたる約200点が出品され、その大半が初公開となります。

    また近年新たに発見された、ウィーン時代の作品も紹介されています。

    2010年の国立新美術館で開催された回顧展を経て、

    日本でのルーシー・リー人気には目を見張るものがあります。

    ブームや「かわいい」という言葉だけで片づけてしまうには惜しい、

    ルーシー・リーの魅力が詰まった展覧会です。どうぞご覧ください。

    コラム画像 IMG_5345.JPG現在ロンドンのビクトリア・アンド・アルバート美術館には、

    リーの工房の一部が再現されています(画像)。

    写真右手に見えるのは、リーが実際に使用していた回転轆轤。

    左手の棚に積み上げられているのは、

    戦時下に生計を立てるために制作していた陶製のボタンのための石膏型。

    (a.i)