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没後150年 坂本龍馬

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展示構成
1章 龍馬の生まれ育った時代
2章 土佐脱藩と海軍修行
3章 龍馬の手紙を読む
4章 龍馬の遺品
5章 薩長同盟から大政奉還―そして龍馬の死後―
6章 瓦版・錦絵からみた幕末維新
7章 美術工芸からみた幕末維新─近世絵画・刀・甲冑─


見どころ
①手紙に見る龍馬の人柄

龍馬は家族、特に3歳上の姉・乙女に多くの手紙を書いています。
あの有名なセリフ、「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候」も乙女に宛てた手紙の一文です。
また、寺田屋事件で負傷した龍馬が、傷の湯治のため訪れた鹿児島・霧島旅行の様子を絵入りで記した手紙では、高千穂峰山頂で、天逆鉾を「エイヤ」と引き抜いた、とあります。ちなみにこの旅行、妻・おりょうとの新婚旅行ともいわれています。

自分たちが日本を変えて見せる!
「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候」

重要文化財《龍馬書簡 文久三年六月二十九日 坂本乙女宛》(部分) 京都国立博物館(7/1-7/20展示)
龍馬、高千穂峰に登る。妻・おりょうとの新婚旅行!

重要文化財《龍馬書簡 慶応二年十二月四日 坂本乙女宛》(部分) 京都国立博物館(7/1-7/20展示)

一方、大政奉還直前、兄・権平に送った手紙は、下部に墨移りの跡が残り、その慌ただしくも緊迫した様子がわかります。そして、この手紙は家族に宛てた最後の手紙となったのです。

家族にあてた最後の手紙。
大政奉還直前に書き、下部には墨移りの跡が残る

重要文化財《龍馬書簡 慶応三年十月九日 坂本権平宛》(部分) 京都国立博物館(7/1-7/20展示)

このように龍馬の手紙からは、脱藩後の動向はもちろん、龍馬の自由で柔軟な思考や先見性、交友の広さ、そして家族への気遣いなどをみることができます。


*会期中、映像コーナーでも手紙の見どころを紹介しています。


②龍馬の暗殺

慶応3(1867)年11月15日夜、龍馬は近江屋母屋の2階で中岡慎太郎(1838-1867)と談論中に暗殺されました。部屋にあった掛軸と屏風には、血が飛び散り、その生々しい現場の様子が伝わってきます。
このほか、札幌の坂本本家に伝来した重要文化財の三徳(紙入れ)や鍔、鏡など龍馬遺愛の品々も展示します。

飛び散る血痕!!龍馬暗殺の部屋にあった掛軸と屏風

左:重要文化財《書画貼交屏風(血染屏風)》 京都国立博物館(7/1-7/13展示)
右:重要文化財 板倉槐堂筆《梅椿図(血染掛軸)》 京都国立博物館(8/15-8/27展示)※7/14-8/14は複製展示


③龍馬遺愛の品

龍馬の愛刀「吉行」。これまで、本品の外見は反りがほとんどなく、刃文も直刃(すぐは)調であり、本来の「吉行」の作風と異なることから、疑問視する見方もありました。しかし、近年、坂本家子孫の記録から、龍馬が近江屋で暗殺された際に所持し、刺客の刀を鞘ごと受けた刀であることと、大正2年、釧路市の大火で焼けて変形、反りを失ったことがわかりました。検証作業でも、刀身にわずかに波のようにうねる本来の刃文が確認されました。

龍馬暗殺の際に所持か!?最新の研究で愛刀・吉行の刃文を確認!

《刀 銘吉行 坂本龍馬佩用》 京都国立博物館

龍馬が暗殺された京都の醤油商・近江屋の井口家に伝来した鏡。鏡を収めた木箱には「阪本龍馬御鏡」と墨書がありますが、もともとは龍馬の持物ではなく、近江屋主人の妻の鏡を龍馬が借りて使っていたものと伝わっています。

西陣織製の紙入れ

重要文化財《三徳 坂本龍馬使用》
京都国立博物館(8/1-8/20展示)
近江屋ゆかりの龍馬の鏡

《海獣葡萄鏡 坂本龍馬使用》京都国立博物館


④龍馬が生きた時代、幕末

伊能忠敬の測量を基に制作された日本地図(伊能図)や、絵画に記録された歴史的事件、ペリー来航関係資料、当時の新聞ともいえる瓦版、明治初期の錦絵、幕末の騒乱を描いた絵巻物など、龍馬が駆け抜けた動乱の時代を、同時代の美術工芸品を通してご紹介します。

ペリーがやってきた!錦絵に描かれた黒船は、妖怪のよう

《異国船図》 長崎歴史文化博物館(前期展示)

同じ蒸気軍艦(黒船)とは思えない?写実的な船

《ペリー来航図巻(甲寅記事画巻)》(部分) 京都国立博物館


龍馬が「日本第一の人物」と尊敬した
師・勝海舟の肖像

川村清雄筆《江戸城明渡の帰途(海舟江戸開城図)》
東京都江戸東京博物館(後期展示)
「此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外か、かはいがられて(可愛がられて)候」
龍馬は、乙女宛の手紙の中で、旗本・勝海舟(勝麟太郎・1823-1899)の弟子となり、海軍創設に従事することを伝えています。
勝は龍馬に知識や人脈を与え、龍馬も勝を「日本第一の人物」と尊敬しました。
勝海舟は蘭学・兵学を学び、幕府・海軍創設に尽力します。戊辰戦争では幕府側代表として西郷隆盛と会見、江戸城の無血開城を実現しました。
幕臣の家に生まれた洋画家・川村清雄(1852-1934)が描いた勝の肖像は、この江戸無血開城の様子を描いたものです。江戸城の石垣の前に立つ勝の足元には、徳川家の家紋・三つ葉葵の瓦、その背後には刀を抜き、怒りの形相の幕府軍将官が描かれ、勝の苦しい立場を表現しています。


⑤静岡だけの特別展示!重要文化財 渡辺崋山《千山万水図》

作者は三河国田原藩士・渡辺崋山(1793-1841)。幕府の海防掛に任じられたことから海外の情勢に通じ、蘭学を研究する一方、画家としても活躍しました。
《千山万水図》は、一見、中国風の山水画に見えますが、画中に外国船らしき船影があることから、崋山の海防思想が反映されているという説があります。本作の年紀には「丁酉六月」(天保8年)とありますが、実際には蟄居中の天保12(1841)年に描いたと考えられています。天保8年6月は「モリソン号事件」が起こった月です。崋山は、この事件の幕府の対外政策を批判した『慎機論』を著し、蛮社の獄で捕えられることとなりました。

描かれた3本マストの大型船!
ペリーが来航するまで、日本では大型船の造船は禁止されていた。

重要文化財 渡辺崋山《千山万水図》 天保12(1841)年 田原市博物館(後期展示)