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ヴラマンク展

展覧会概要主な出品作品お楽しみ関連事業刊行物


みどころ
①ヴラマンク独自の画風の形成の様子を、フォービスムを離れ始めた1907年以降の作品でたどります。
②日本ではまとまって紹介される機会の少ない海外の個人所蔵の作品を多数展示します。
③各作品にはヴラマンクの言葉を添えて展示するほか、彼の著書を紹介するコーナーも。知られざる「文筆家ヴラマンク」としての姿も紹介します。
④作家として、そして画家としての彼のまなざしが一体となって表されているといわれる「私の遺言」。ヴラマンク自身が読み上げている音声を、スライドとともに上映します。
⑤全国巡回の最終会場です。お見逃しなく!


ラ・トゥリリエールのアトリエにいるヴラマンク
(1935年頃)

1.セザニアン期:パリ周辺(1907-1916年頃)

1907年頃からヴラマンクはフォービスムから距離を置き始めます。そしてセザンヌから影響を受けた、形態のヴォリュームを強調した構成力のある作品を描くようになります。この頃のヴラマンクは、パリ郊外のセーヌ川流域の風景を、当時最先端の乗り物の一つであった自転車で巡り、描く題材を求めていました。1908年頃からは、画商アンブロワーズ・ヴォラールが定期的にヴラマンクの作品を購入し、彼は画家として生活をしていけるようになります。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヴラマンクも召集され制作活動は停滞しますが、配属先の風景や静物などを描き続けました。



《緑色のテーブルの上の静物》 1907年
油彩・カンヴァス 個人蔵


《赤色の屋根》 1908年
油彩・カンヴァス 個人蔵


《スイカのある静物》 1910年
油彩・カンヴァス スイス 個人蔵

画家の仕事は、絵画を使ってそれらをカンヴァス上に置き、押し付けて、塗り広げ、また画面を構成するという個々人で異なる手法をとるものであるが、それは、作家にとっての仕事が、言葉の選抜、語彙、文の構成などであるのと同じである…。
Vlaminck, Désobéir, 1936, p.81.


2.第一次世界大戦後:ヴァル=ドワーズとパリ周辺(1919-1925年)

第一次世界大戦後のヴラマンクは、パリを離れ郊外へと住まいを移し、1919年にはパリから北へ約30kmほどのソスロン川流域の町ラ・ナーズに、次いで1920年には、ゴッホ終焉の地としても知られるオーヴェール=シュル=オワーズに居を定めます。この時期のヴラマンクは、セザンヌの影響を保ちながらも、情感を込めたような、厚塗りの大きな筆致で対象を描き出す独自の画風を作り上げていきました。題材はセーヌ川やソスロン川の流域、村を横切る道、花などの静物が中心で、特に雪景色は色彩の強いコントラストを表現できるため、以後も好んで描くようになります。



《村の通り》 1920-22年
油彩・カンヴァス スイス 個人蔵
私は、寒く、どんよりとした日々、霧にむせぶ世界、雑木林の枝や茂み、垣根に降り注いだ霜も、愛している。
Vlaminck, Désobéir, 1936, p.36.


3.シャルトル周辺、ノルマンディー、ブルターニュ(1925-1958年)

1925年ヴラマンクは、パリから西へ100km以上離れた小村リュエイユ=ラ=ガドリエール近郊のラ・トゥリリエールに移り住み、亡くなるまで暮らしました。ラ・トゥリリエールの家には、画家のモーリス・ユトリロや、ダンサーのジョセフィン・ベイカー、作家のジョルジュ・シムノンなどの友人たちが多数訪れました。この頃の作品は、筆触はより密度が増し、エネルギッシュで感情あふれるものとなり、色彩も以前より落ち着いた色調を用いながらも、白のコントラストを際立たせていくようになります。自宅周辺の小麦畑などの風景はもちろん、自動車に乗って200km以上も離れたノルマンディー地方などへも出かけ、海景画や走行中に窓から見えた景色なども描きました。



《冬の村通り》 1928-30年
油彩・カンヴァス スイス 個人蔵
私は、描くことに対して、喜びの源泉、留まることのない会館、非常に強い知的興奮を感じている。私は、空、樹木、雪、そして生命…に共感しているのである。
Vlaminck, Le Ventre ouvert, 1937, pp.71-72.


《ヒナゲシの活けられた花瓶》 1936-37年
油彩・カンヴァス スイス 個人蔵


《漁船の帰還、ブルターニュ》 1947年
油彩・カンヴァス フランス 個人蔵

ただ私は、自身の畑を耕してきた。すなわち、絵を描いてきた。私には生きる理由が必要であった。私は一度も絵画のためにいかさまをしたことはない。
Vlaminck, Paysages et Personnages, 1953, p.198.


《サイロ》 1950年
油彩・カンヴァス フランス 個人蔵


4.ヴラマンクの遺言

ヴラマンクは存命中の1957年1月8日雑誌『ARTS』誌上に、「私の遺言」と題した文を発表しました。「私は、決して何も求めてこなかった。人生が、私にすべてのものを与えてくれた。私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた。」という最後の一文は、彼の墓碑にも刻まれています。会場内では、ヴラマンク本人がこの「私の遺言」を読み上げている音声を、スライドとともに紹介します。



ラ・トゥリリエールの庭にて(1955年頃)
私は、決して何も求めてこなかった。人生が、私にすべてのものを与えてくれた。私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた。
Maurice de Vlaminck, Mon testament, in Arts, 8 janvier 1957

©ADAGP
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2018
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