ラ・トゥリリエールのアトリエにいるヴラマンク (1935年頃) |
1907年頃からヴラマンクはフォービスムから距離を置き始めます。そしてセザンヌから影響を受けた、形態のヴォリュームを強調した構成力のある作品を描くようになります。この頃のヴラマンクは、パリ郊外のセーヌ川流域の風景を、当時最先端の乗り物の一つであった自転車で巡り、描く題材を求めていました。1908年頃からは、画商アンブロワーズ・ヴォラールが定期的にヴラマンクの作品を購入し、彼は画家として生活をしていけるようになります。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヴラマンクも召集され制作活動は停滞しますが、配属先の風景や静物などを描き続けました。
《緑色のテーブルの上の静物》 1907年 油彩・カンヴァス 個人蔵
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《赤色の屋根》 1908年 油彩・カンヴァス 個人蔵 |
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《スイカのある静物》 1910年 油彩・カンヴァス スイス 個人蔵 |
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Vlaminck, Désobéir, 1936, p.81. |
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第一次世界大戦後のヴラマンクは、パリを離れ郊外へと住まいを移し、1919年にはパリから北へ約30kmほどのソスロン川流域の町ラ・ナーズに、次いで1920年には、ゴッホ終焉の地としても知られるオーヴェール=シュル=オワーズに居を定めます。この時期のヴラマンクは、セザンヌの影響を保ちながらも、情感を込めたような、厚塗りの大きな筆致で対象を描き出す独自の画風を作り上げていきました。題材はセーヌ川やソスロン川の流域、村を横切る道、花などの静物が中心で、特に雪景色は色彩の強いコントラストを表現できるため、以後も好んで描くようになります。
《村の通り》 1920-22年 油彩・カンヴァス スイス 個人蔵 |
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Vlaminck, Désobéir, 1936, p.36. |
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1925年ヴラマンクは、パリから西へ100km以上離れた小村リュエイユ=ラ=ガドリエール近郊のラ・トゥリリエールに移り住み、亡くなるまで暮らしました。ラ・トゥリリエールの家には、画家のモーリス・ユトリロや、ダンサーのジョセフィン・ベイカー、作家のジョルジュ・シムノンなどの友人たちが多数訪れました。この頃の作品は、筆触はより密度が増し、エネルギッシュで感情あふれるものとなり、色彩も以前より落ち着いた色調を用いながらも、白のコントラストを際立たせていくようになります。自宅周辺の小麦畑などの風景はもちろん、自動車に乗って200km以上も離れたノルマンディー地方などへも出かけ、海景画や走行中に窓から見えた景色なども描きました。
《冬の村通り》 1928-30年 油彩・カンヴァス スイス 個人蔵 |
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Vlaminck, Le Ventre ouvert, 1937, pp.71-72. |
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《ヒナゲシの活けられた花瓶》 1936-37年 油彩・カンヴァス スイス 個人蔵
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《漁船の帰還、ブルターニュ》 1947年 油彩・カンヴァス フランス 個人蔵 |
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Vlaminck, Paysages et Personnages, 1953, p.198.
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《サイロ》 1950年 油彩・カンヴァス フランス 個人蔵 |
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ヴラマンクは存命中の1957年1月8日雑誌『ARTS』誌上に、「私の遺言」と題した文を発表しました。「私は、決して何も求めてこなかった。人生が、私にすべてのものを与えてくれた。私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた。」という最後の一文は、彼の墓碑にも刻まれています。会場内では、ヴラマンク本人がこの「私の遺言」を読み上げている音声を、スライドとともに紹介します。
ラ・トゥリリエールの庭にて(1955年頃) |
Maurice de Vlaminck, Mon testament, in Arts, 8 janvier 1957 |
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©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2018
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